功山寺 (こうざんじ)
功山寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/25 01:59 UTC 版)
功山寺 | |
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仏殿 (国宝) |
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所在地 | 山口県下関市長府川端1丁目2-3 |
位置 | 北緯33度59分45.2秒 東経130度58分54.9秒 / 北緯33.995889度 東経130.981917度座標: 北緯33度59分45.2秒 東経130度58分54.9秒 / 北緯33.995889度 東経130.981917度 |
山号 | 金山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 千手観音菩薩 |
創建年 | 嘉暦2年(1327年) |
開基 | 虚庵玄寂 |
別称 | 長福寺(旧称) |
札所等 | 中国三十三観音霊場19番 山陽花の寺9番 |
文化財 | 仏殿(国宝) 地蔵菩薩半跏像(県指定)他 |
公式サイト | http://kouzanji.org/ |
法人番号 | 5250005003506 ![]() |
功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。
仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。
歴史
嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。開基は北条時仲と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。
室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興された。弘治3年(1557年)、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。
慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。
幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。
文化財
国宝
- 仏殿 - 柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明する。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置する。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重である。
県指定文化財
市指定文化財
- 山門 - 安永2年(1773年)
- 経蔵 - 輪蔵とも。寛政11年(1799年)
- 書院 - 七卿潜居の間。実際に滞在したのは5卿
- 韋駄天像 - 鎌倉時代末期
- 千手観音菩薩坐像 - 鎌倉時代末期
- 二十八部衆像 -
- 金岡用兼画像 - 室町時代中期
- 毛利秀元画像 - 江戸時代初期
- 大洞覚仙画像 - 江戸時代、狩野陽信作
国の登録有形文化財
- 総門 - 軸部は室町時代中期の形式を残すが、軒回りは江戸時代に改変されている。禅宗様、四脚門、木造、瓦葺き、間口4.4m[1]
- 旧長門尊攘堂 - 1933年築、鉄筋コンクリート造平屋建、瓦葺、建築面積315平方メートル。2016年まで、下関市立長府博物館本館として使用
境内
- 総門
- 山門
- 仏殿
- 法堂
- 書院
- 庫裡
- 鐘楼
- 経蔵
- 毛利家廟所
- 地蔵堂
- 高杉晋作像
墓所
その他
交通アクセス
前後の札所
- 中国三十三観音霊場
- 18 宗麟寺 -- 19 功山寺 -- 20 大照院
- 山陽花の寺二十四か寺
- 8 東行庵 -- 9 功山寺 -- 10 木山寺
脚注
参考文献
- 『週刊朝日百科 日本の国宝 27』、朝日新聞社、1997(功山寺の解説執筆は町田一仁、日向進)
関連項目
- 東行庵 - 功山寺の末寺
外部リンク
功山寺
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川端にある曹洞宗の寺院で、前身は臨済宗の長福寺。谷の長福寺とも言われていた。毛利秀元のとき、慶長7年(1602年)に修築されて曹洞宗に改宗・笑山寺に改称し、慶安3年(1650年)には秀元の戒名より功山寺に名称が変わった。長福寺の開山は虚庵玄寂禅師といわれている。山号は金山。本尊は釈迦如来。 大内氏の時代には功山寺の前身となる長福寺は手厚く保護された。大内義長が弘治3年(1557年)に自害した場所でもあり、墓は功山寺墓地にある宝篋印塔である。真ん中の宝篋印塔が大内義長、右が側近の杉民部、左の五輪塔と宝篋印塔を組み合わせたような墓が陶鶴寿丸のものであると考えられている。これは功山寺37世の百城が裏山で発見したものである。 功山寺内の文化財 功山寺は境内全体としては下関市指定文化財に指定されており、さらに一部は別の記念物に指定されている。功山寺仏殿は国宝で明治21年(1888年)に古社寺保存法のもと、特別保護建造物、明治36年(1903年)4月15日に重要文化財、昭和28年(1953年)11月14日に国宝に指定された。建築方式は唐様(禅宗様)。建立は言い伝えでは嘉暦2年(1327年)、仏殿の柱にある文字によると元応2年(1320年)4月5日で唐様(禅宗様)の建造物としては日本最古である。 功山寺山門は市指定有形文化財で、安永2年(1773年)に10代藩主毛利匡芳の命令で建立された。この山門は二重櫓となっており、2階に当たる部分には20体程度の仏像がある。昭和45年(1970年)3月4日に市指定有形文化財に指定された。 功山寺輪蔵は仏殿・書院前にある輪蔵と呼ばれる建造物(画像)で第11代長府藩主、毛利元義が寛政11年(1799年)に寄進したもの。 功山寺地蔵堂内にある木造地蔵菩薩半跏像は県指定の有形文化財に指定されている仏像で昭和41年(1966年)6月10日に指定された。製作されたのは12世紀ごろで、台座以外は製作当時のままを保っており、その点で価値は高い。
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