上杉治憲 上杉治憲の概要

上杉治憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/16 10:34 UTC 版)

 
上杉 鷹山
上杉鷹山
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延4年7月20日1751年9月9日
死没 文政5年3月11日1822年4月2日
改名 幼名:松三郎(秋月家時代)→ 直松/:勝興→治憲
別名 通称:直丸/出家号:鷹山
戒名 元徳院殿聖翁文心大居士
墓所 山形県米沢市松岬神社、上杉家御廟
官位 従四位下弾正大弼侍従越前守、贈従三位[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
出羽米沢藩
氏族 秋月氏上杉氏
父母 父:秋月種美、母:黒田長貞娘・春姫
養父:上杉重定
兄弟 秋月種茂治憲鷹山)、相良晃長中条信義、他
正室:幸姫上杉重定の娘)
側室:お豊の方上杉勝延の娘)
顕孝、(寛之助)
養子:治広
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上杉神社に立つ銅像
江戸時代中期から昭和までの上杉氏系図。

生涯

誕生から襲封まで

寛延4年7月20日1751年9月9日)、日向高鍋藩秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。

宝暦10年(1760年)、米沢藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、明和3年(1766年)に元服勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府10代将軍徳川家治偏諱を受け、治憲と改名する。明和4年(1767年)に家督を継ぐ。

上杉家は、18世紀中頃には借財が20万(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万(実高は約30万石)でありながら、会津120万石時代の家臣団6千人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった[注釈 1]。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、「新品の金物の金気[注釈 2]を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」といった洒落巷談が流行っていたほどである。

加えて農村の疲弊や、宝暦3年(1753年)の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。

米沢藩政改革

当時米沢藩では重定の側用人森平右衛門による専制体制が敷かれ、江戸の商人からの大名貸が打ち切られるなど問題をきたしていた。そのため、家老竹俣当綱は森を謀殺し、産業振興に重きを置いた明和・安永改革を行う。新藩主に就任した治憲は、この竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政(中老、のち家老)を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた[3]

天明年間には天明の大飢饉東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校興譲館山形県立米沢興譲館高等学校のルーツ)として細井平洲神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

安永2年6月27日1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。

これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)、専横が目立った竹俣を罷免し、同時に家督を前藩主重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居した。この後、逝去まで後継藩主を後見し、隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。この後の藩政改革は家老莅戸善政を中心に財政支出半減と産業振興をはかった寛政の改革(寛三の改革)と呼ばれる。

享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号す[注釈 3]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。莅戸善政が没すると、その子莅戸政以が家督を継ぎ、享和・文化改革と呼ばれる改革を行った。

文政5年3月11日1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。

改革について

米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。

鷹山の推奨したウコギの垣根は、もともと直江兼続が行わせていたのを鷹山が復活させたもので、現在でも利用されている。若葉は苦味があるが高温の湯や油で調理して食べられる。根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。

日本で最も古く公娼制度の廃止にも取り組んだ。これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという[4]

官歴

人物・逸話

鷹山による崇広堂の扁額
  • 元来頑丈で大病でも病床についたことはなかったようである[5]
  • 着衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であった[6]
  • 上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣で鷹山の傅役であった三好善太夫重道より訓言を記した一書を手渡されているが、鷹山は生涯これを机の近辺より離さず、また鷹山の業績はこれに基づいているとされる[7]。この書は現在、米沢市の上杉神社に保管されている[7]
  • 米沢の名産である笹野一刀彫の「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴という。
  • 煙草を愛好していた。また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。
  • 一時期鳥の飼育を趣味にし珍しい鳥を何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたり、きっぱりとやめ飼っていた鳥を全て野に放っている。また、隠居後煎茶に凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶を不味く感じるようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる。
  • 有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり[8]」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『書経』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた[注釈 4]。これは武田信玄(1521-1573)の名言「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」を模範にしたもの。また、平田篤胤の歌にも「なせば成るなさねば成らず成る業(わざ)を成らずと棄(す)つる人のはかなさ」がある[9]
  • 伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と文政4年(1821年)とある[10]
  • 当時、米沢藩で奸臣と見なされていた直江兼続[要出典]の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた[11]
  • 江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに改革に専念する理由もあったからという考察がある。[要出典]なお、幕府は諸大名が隠居後に領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。
  • 藩主の称号は謙信以来の屋形であり、隠居した先代は大殿様であった。治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、中殿様と呼ばれている。
  • 天明7年(1787年)8月に実父の秋月種美の危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。
  • 米沢藩を建て直した際の根本方針の精神となった自助・共助・扶助の三助を唱えたとされる[12][13][14]

伝国の辞

伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日  治憲 花押
治広殿  机前

以下が意訳である。

一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、民(領民)は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。

伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

老婆の手紙

安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。

一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候
ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候
老婆の手紙と足袋(米沢市宮坂考古館所蔵)

ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門[注釈 5]に(門番に話を通しておくから)と言うのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)であった。

お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。なお、「トウベイ」とは屋号と推定されている。

講談水戸黄門漫遊記』のように、お忍びの殿様が庶民を手助けする話(架空)はよく語られるが、こうした実例が示されることは他にないであろう。

遠山村では安永元年(1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国の代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったものである。4の籍田で収穫された米は、謙信公御堂白子神社、城内春日神社に奉納され、残りは下級武士に配給された。これは歴代藩主に受け継がれた。

この手紙の逸話については、莅戸善政の記録に、該当すると思われる記述がある。

手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されている。ほぼ片仮名で書かれ、現代人にも容易に読むことができる。当時の識字率書法の一例としても興味深い。

鷹山の名声・評価

鷹山による米沢藩の藩政は在命中から日本全国のおおよそ280藩の中でも模範として幕府から称揚されていた、と小説家の綱淵謙錠は述べている[15]。特に寛政の改革の主導者であった老中松平定信からは高く評価され、白川藩主時代の定信から鷹山の徳政を称える手紙を受け取っている。定信は後に鷹山の訃報を告げられたさい、「三百諸侯第一の賢君が亡くなられた」と言ってその死を悼んだ。

明治以降、鷹山は修身の教科書で数多く取り上げられた[16]。また、内村鑑三が海外向けの日本人論として英語で著した『代表的日本人』でも、鷹山の生涯が紹介された。

米沢藩中興の祖である鷹山は、現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。2007年に『讀賣新聞』が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも、理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げた[17][18][19]という逸話がある。1975年に綱淵謙錠と歴史家の奈良本辰也を迎えて放送されたNHKの歴史番組『日本史探訪』では、ケネディは内村鑑三著の『代表的日本人』により鷹山を知り、政治家の理想像を見たとしている[15]。ただし、この逸話の真偽は不明である[20]。米沢史研究家の小野榮は、鷹山を尊敬していると述べたのは、ケネディではなく、第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている[21]。なお、ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、山形県米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、「父は『一人でも世の中を変えることができる』とよく話をしていた。しかし鷹山公ほど端的に言い表した人はいない。『なせばなる』。」と、父親のケネディが鷹山を称賛していたとのスピーチをした[22]

2014年5月、山形県の白鷹山(994メートル)の山頂に2基の石碑が建立された。1基は鷹山が藩主としての心得を示した「伝国の辞」。もう1基には英語で「国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国家に何ができるかを問おうではないか 大統領ジョンF・ケネディ 上杉鷹山の称賛者」と刻まれている。


注釈

  1. ^ 実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していた。
  2. ^ 新しい鉄製の鍋・釜・鉄瓶などで湯を沸かすときに染み出る鉄臭い渋味
  3. ^ なお、武鑑の『諸大名御隠居方並御家督』で治憲の表記が「米沢侍従越前守藤原治憲」から「米沢侍従鷹山藤原治憲」に変更されたのは文化9年(1812年)からである。
  4. ^ 現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々は武田信玄の名言をコピーしたもので、武田信玄の名言「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」を変えて言ったものとされる。「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、山本五十六(武田家家臣山本勘助の子孫と伝えられる山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。[要出典]
  5. ^ 米沢城は東門が正門で藩主専用、北門が藩士、出入りの者の通用門である。
  6. ^ 末期養子の禁に抵触して無嗣断絶となるのを回避するため、公家の子弟から替え玉の藩主が擁立された。なお、当初は治憲が相良家の養子に所望されていたが、既に上杉家との養子話が進行中だったため弟が選ばれた経緯があった。
  7. ^ いずれも先代による後継指名ではなく、前者は先代死後に末期養子を認められたもので(代償で所領は半減した)、後者は後継者争いの内乱(御館の乱)を経ていた。
  8. ^ このように言われているが、この時、宗勝は既に死亡している。実際には徳川宗睦と思われる。

出典

  1. ^ a b 故上杉輝虎外四名贈位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110299500 
  2. ^ 横山昭男『上杉鷹山』吉川弘文館 (1987)
  3. ^ 海音寺潮五郎 『武将列伝 江戸篇』〈文春文庫〉(新装版)文藝春秋、2008年7月10日。ISBN 978-4167135577 
  4. ^ 内村 1995.
  5. ^ 横山 1987.
  6. ^ 宮本義己 『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』中央労働災害防止協会、2002年、116-117頁。 
  7. ^ a b 安田尚義 『高鍋藩史話』鉱脈社、1998年。ISBN 4860613325 
  8. ^ 伝国社 特別展「上杉鷹山~改革への道~” (日本語). 米沢市上杉博物館. 2009年7月20日閲覧。
  9. ^ 気吹舎歌集』、菅野覚明『神道の逆襲』 講談社現代新書 2001、p.264.
  10. ^ 三重県立博物館"崇廣堂扁額"
  11. ^ 上杉鷹山”. 置賜文化フォーラム
  12. ^ 上杉鷹山 三助” (日本語). 福井県で自主防災を支援する“まちの防災研究会”ページ!. 2021年11月19日閲覧。
  13. ^ 5 防災まちづくりの推進 | 防災情報”. www.bousai.go.jp. 2021年11月19日閲覧。
  14. ^ 小社会 自助、共助、公助 | 高知新聞” (日本語). www.kochinews.co.jp. 2021年11月19日閲覧。
  15. ^ a b 奈良本辰也、綱淵謙錠 著「藩政を改革した米沢の名君 上杉鷹山」、角川書店、西沢国雄(構成) 編 『日本史探訪13 幕藩体制の軌跡』〈角川文庫〉角川書店、1984年。ISBN 4041533139 
  16. ^ 滋賀大学附属図書館 『修身教科書』 第1部 明治期から昭和戦前期の変遷、サンライズ出版、2006年10月23日。ISBN 4883253082NCID BA79052260https://hdl.handle.net/10441/392 
  17. ^ 外国人が称賛した山形” (日本語). 山形県. 2021年3月8日閲覧。
  18. ^ J・F・ケネディが尊敬した政治家・上杉鷹山” (日本語). 日経BizGate. 2021年3月8日閲覧。
  19. ^ 【歴史編】「上杉鷹山」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る” (日本語). NECネクサソリューションズ. 2021年3月8日閲覧。
  20. ^ J.F.ケネディ大統領が就任間もなく、日本人記者とのインタビューで尊敬する人物として、上杉鷹山の名前をあげた。この時の記事を探している。”. レファレンス事例詳細(Detail of reference example). レファレンス協同データベース (2012年8月1日). 2018年1月25日閲覧。
  21. ^ 小野榮 『シリーズ藩物語 米沢藩』現代書館、2006年、204頁。ISBN 4768471048 
  22. ^ 鷹山ゆかりの地…ケネディ大使が米沢市訪問”. 日テレNews24 (2014年9月27日). 2018年1月25日閲覧。


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