論功行賞
論功行賞とは、「それまでの功績の程度を調べた上で、その功績の程度に応じた見返りを与える」という意味の表現、故事成語。とりわけ、組閣において、目だった功績を持つ議員を積極的に閣僚に迎え入れる人事を形容する場合が多い。
論功行賞は、「論功し、行賞する」と区切って捉えられる。論功とは「功を論じる」こと、つまり功績や手柄の有無あるいは大小を調査し議論して見極めることである。行賞は、功績に応じて賞を授与することを指す。
「論功行賞」は「三国志」(三國志)の魏書「明帝紀」を出典とする。
撫軍大將軍司馬宣王討破之,斬霸,
征東大將軍曹休又破其別將於尋陽。
論功行賞各有差。
―― 明帝紀:Chinese Text Project
《大まかな訳》
撫軍の大将軍である司馬宣王(司馬懿)はこれを討ち破り、霸を斬った。
征東大将軍である曹休はまた、その別将(副将軍)を尋陽において撃破した。
論功し、行賞すると、各々に差があった。
組閣人事における「論功行賞」は、総裁選の勝利へ貢献した者ほど重役へ登用するような人員配置を指す。実際にそのような意図に基づいているわけではなくともマスコミ等に「論功行賞」と報道される場合がままある。
論功行賞
恩賞
(論功行賞 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/03 02:21 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2019年10月)
|
恩賞(おんしょう)とは、近世以前に行われた合戦において、主君が武士が戦功を挙げた家人や武士に対して表彰し、所領もしくは官途状、感状、物品の授与、格式の免許、官職への任官の推薦を行うこと(関連用語→恩給)。
日本
古代
日本における恩賞の給与は、古代以降、蝦夷征伐や謀叛の鎮圧に功労のあった武官に対して、朝廷が官位の任官または昇叙を行ったことによる。
9世紀に入り、軍団が形骸化し実質的に消滅していくと、郡司・富豪層や俘囚が「発兵勅符」に基づいて軍事力として編成されるようになり、功績を挙げた郡司・富豪・俘囚に恩賞が与えられた。9世紀末頃からは、「追捕官符」の発布を受けた国司(国衙機構)が自らの裁量で国内の郡司・富豪層を軍事編成するようになり、功績の顕著な者に対しては朝廷から恩賞が給与された。
10世紀前半、東国では寛平・延喜東国の乱、西国では承平南海賊という戦乱が発生しており、両乱の鎮圧に挙げた国司や軍事・富豪(田堵負名)層の功績は非常に高かったが、彼らに対する恩賞は十分なものとは言えず、この不満が高じて承平天慶の乱の発生要因となった。なお、この過程において、国司(国衙機構)を中心とする軍事制度、すなわち国衙軍制が成立した。
国衙軍制の中では、国司が軍事面における最高指揮者であったため、国司の地位は決定的であった。10世紀から11世紀にかけて、貴族社会において特定の家系が一つの官司を世襲する「官司の家業化」が急速に進展しており、その流れの中で、武芸・軍事を「家業」とする貴族家系(兵の家)が登場していた。兵の家は、受領を歴任し、また押領使・追捕使に補任されるなどし、代々培ったノウハウをもって各地の軍事力を編成するとともに、田堵負名層と私的な主従関係を結ぶ者も現れた。兵の家の一部は11世紀に入ると軍事貴族へと成長した。
11世紀中葉に王朝国家体制が変質すると(後期王朝国家)、田堵負名層の多くは武士化するとともに在地領主化していき、一方、国衙軍制は崩壊し、国司の代わりに代々国押領使・国追捕使の地位を世襲してきた「一国棟梁」を中心とした軍事力編成がなされるようになった。軍事貴族層でもある一国棟梁は、田堵負名層(在地領主層)らの所領を安堵(所領権を保証すること)し、田堵負名層は、軍役に応え戦功に応じてさらに新たな所領を与えられたりした。こうした武功による恩賞の査定・授与を論功行賞(ろんこうこうしょう)という。
「追捕官符」に基づき、一国棟梁たる軍事貴族らは家人である武士団(=田堵負名層(在地領主層))を率いて謀叛や蜂起を鎮圧すると、軍事貴族自らも恩賞を獲得するとともに、家人の恩賞を朝廷に周旋し、家人の任官・昇叙に関与したり、または荘官職に補任することによって新たな所領を宛がったりした。軍事貴族の中でも、高位の四位に任じられた清和源氏と桓武平氏は、この時代新たに登場した武士層の棟梁、すなわち武家の棟梁と呼びうる存在であった。こうした武家の棟梁に対する恩賞は、所領を棟梁から家人へ分け与える一方、棟梁自らはさらなる勢力拡大のために収入の多い国の国司職や、中央政界における地位向上につながる位階の昇叙、御所への昇殿などを獲得するよう積極的に運動し、源氏や平氏の棟梁はこうした戦功を勝ち得る中で中央政界における地位と、諸国における武力を確立を図っていった。
恩賞給与には常に公平性の問題がつきまとった。勲功の報告は、受領や追捕使・追討使などを通じて行われたため、必ずしも微に入った報告がなされたとは限らず、また報告者によるひいきも行われた可能性もある。そのため、給与された恩賞に対する不満は常に潜在していたと言ってよい。武士にとっての恩賞とは、家門の繁栄や永続、地位や勢力の維持を図る上で非常に切実な問題であったからである。
中世
平治の乱以降、平氏は新たな秩序を中央政界においても武士社会においても構築していった。この結果、恩賞の仲介者であった武士自らが恩賞の授与権者の地位を獲得するようになった。平氏政権は人事や荘園の多くを掌握し、恩賞を差配する地位につくことでその権力を強固なものとし、諸国の武士を支配した。しかし、武士の間では平氏からの恩賞給与に対する不満が多かれ少なかれ存在していたとされ、このことが治承・寿永の乱へつながる一要因になったとされている。
平氏政権に次いで、武家政権を確立したのが源頼朝である。源頼朝を政治的な基盤は関東武士団だったが、頼朝にとって彼ら関東武士の支持を得ることが最重要課題であったため、寿永・治承の内乱から奥州合戦に至るまでの恩賞給与に当たっては、関東武士らの満足が得られるものとなるよう最深の注意を傾注した。やがて、鎌倉時代が進むと、恩賞の概念はより多様化した。御家人には軍忠状を提出して軍功と引き換えに恩賞を請求する権利が与えられ、恩賞奉行などがこの請求を審査した。これに基づいて所領の給与や地頭職・荘官職・有司職への補任などの形式を取って新たな土地財産権が給付された。また、既存の所領で紛争を抱えていた場合には安堵状による所領保障が恩賞となりうることもあった。更に朝廷の官職への推挙権や幕府の役職も恩賞の対象となり、地方の御家人が守護への補任により勢力を拡大させたり、中央政界に進出するきっかけをも作った。また、純粋な恩賞とはいい難いが、鎌倉殿や執権が御家人に対して偏諱を与えるようになり、特に鎌倉殿の偏諱はきわめて重い栄誉とされた。また、武勲を褒め称える感状の授与も鎌倉時代以降の慣習である。
そうした恩賞のあり方は南北朝時代や室町時代を通じて、基本的に踏襲されていったが、南北朝時代には室町幕府の守護が自らの家人に対して、官途状を発給し、事実上の官職の私称を許す、受領名の授与が行われるようになった他、幕府や鎌倉公方が足利氏一門や有力守護に裏書免許、屋形号免許、塗輿免許、白傘袋毛氈鞍覆免許などの格式を許すこともなされるようになり、守護代に対しても塗輿や唐傘袋毛氈鞍覆の免許を行うようになり、恩賞のあり方はきわめて多様化した。
偏諱については室町時代にも行われ、幕府への寄進や寄付に応じ、足利将軍家の通り名である「義」の字、または代々の諱の下の文字を与え、いわば将軍直臣の格式を示す栄誉として戦国時代に至るまで発給され続けた。
将軍家の通り名である「義」の字は、歴代将軍の諱の下の字よりも格式が高く、斯波義良他代々の斯波氏当主、一色義道他代々の一色氏家督、仁木義長らの足利一門、西国一の名門といわれた大内義隆などの有力守護、もとは守護代で守護、最盛期は西国に11ヶ国の所領を得た尼子義久などが代表的である。将軍の一字を賜った大名には、畠山尚順ら畠山氏、細川晴元ら代々の細川氏当主、守護代の家系から越後国主となった長尾為景の後継長尾晴景・上杉輝虎兄弟をはじめ武田晴信(信玄)、筒井藤勝(順慶)、毛利輝元、尼子晴久などが著名である。なお、歴代将軍の中には中途で改名したものもおり、改名以前にその当時の下の字が与えられている例もあるので注意を要する(足利義稙(義材)の「材」、足利義澄(義高)の「高」、足利義輝(義藤)の「藤」など)。
近世
安土桃山時代には、茶道の文化が広まり、織田信長により家臣に対して、恩賞の一環として茶会の開催の免許や茶器の授与がなされた。織田氏重臣であった滝川一益は武田氏の討伐と関東進出への功績から、70万石もの所領を与えられたが、願望だった茶器の授与がなく悔しがった故事が伝わっている。
江戸時代以降は、所領の加増という点は一貫して踏襲しているが、転封という概念が加わり、旧領や大名・旗本の先祖代々の土地に縛られず、幕府の意向により領国そのものを異動させる制度が出来た。また、屋形号や将軍による偏諱も踏襲されたが、これは功績による表彰というよりも、格式の認定という側面が強まった。大名の中で唯一、老中などの幕閣を占める前途を保証された譜代大名に対しては、所領の加増はもとより、役職の昇進も恩賞となった。
江戸幕府が倒れた近代以降、明治新政府の下で陸軍省・海軍省が設置され、後にそれぞれの省に人事局恩賞課が置かれた他、功績調査部なども置かれた。
戦後では、栄典や顕彰・表彰・人事考課などという概念が一般的となり、公的に恩賞の概念は用いられないが、政権獲得や内閣成立に功績のあった与党政治家の重要役職への就任や入閣があった場合に、論功行賞人事や恩賞人事と揶揄される場合に用いられることもある。
関連項目
論功行賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 07:28 UTC 版)
本作ではシリーズの他作品と異なり、配下の忠誠度が数値では明示されない。その代わりに配下武将に行動させる際に必要となる「気合」の回復度を忠誠度の目安にすることとなる。武将に命令を繰り返すと勲功が溜まり、そのまま放置しておくと忠誠度が下がる。忠誠度が低くなる、すなわち気合の回復度が下がると、内政などコマンド実行をしても大した働きを見せなくなり、時には離反する。これを防ぐには論功行賞を開き、忠誠度を上げなければならない。 前作『武将風雲録』では家臣への恩賞として茶器が加わったが、本作では知行(領地)の加増その他多様な恩賞を与えることが可能となった。地方知行制(現地領主として土地支配させる)をシミュレートしている。シリーズの他作品においてはシステム上、武将があたかも大名から兵を与えられて戦をしているかのように表現されているものもあるが、本作ではより史実を反映した形となっている。家臣が史実上領有した土地や叙任された官位をゲーム上でも与え、より戦国大名気分に浸ることもできた。 またアイテムも茶器に加え、武器防具や舶来品など、飛躍的に種類が増えている。更に、効果は小さいが、無料で発行できる感状もある。いずれも、勲功に応じて必要量(またはアイテムの等級)は増え、勲功に見合わぬ行賞(つまり、配下が不当と判断する行賞)を行うと忠誠度が下がることとなる。本作から家宝のバリエーションが増え、複数の能力を高められるものも存在する。 それ以外には「一字拝領」を許可する、つまり家臣に大名の一文字を与えることで恩賞とすることもできる。ただし家臣の元の名前が分かりづらくなる欠点もある。また、一部の機種では大名と家臣の組み合わせによっては「『』の字を与えよう」と表示され名前が変わらないのに何故か喜ばれたり(例:「織田信長」が「龍造寺長信」に与える、「長宗我部元親」が「三村元親」に与えるなど)、奇妙な名前になったり(例:「武田信玄」が「高坂昌信」に一字与える→「高坂信信」)する場合もある。 また前作では軍師の資格を持つ者のうち、最も能力の高いものが自動的に軍師となっていたが、本作では軍師の能力に達する者が2名以上いても自分で選ぶことができる。ただ直接的役割としては論功行賞の際の助言ぐらいしかない。 金銭はもっとも手軽だが、忠誠度は上がりにくく、銭の量が不十分な序盤では多用できる手段ではない。 知行加増は忠誠度も上がるが、加増した分大名の米収入が減るため、こまめに開墾を行ったり、新たに領地を拡げないと米が不足する場合もある。忠誠度を犠牲に、減封することもできる。 知行の転封は、京都に近い土地に移すと忠誠度が上がるが、逆は左遷と解釈され忠誠度が下がる。ただし、加増することで低下を避けることはできる。 家宝は忠誠度が大きく上がり、多大な勲功にも報いることができる。 拝領は大名の名前を一字与えるもので効果も高いが一度しか使えない。(家臣の仕官先が変わっても) 感状は大名の政治が高いほど効果が高く、多く発行できるが、それでも他に比べると低い勲功にしか使えない。 家臣に官位叙任を斡旋することができる(下記参照)。これも効果は高い。ただし、すでに官位を持っている家臣にはたとえ上位であっても他の官位を与える事はできず、昇進させるには一旦剥奪しなくてはいけない。 家臣の追放などの処罰も論功行賞で行う。さらに、家臣に切腹を命じることも可能になった。しかし、全ての家臣の忠誠度が下がることとなる。また、他の家臣が連座したり、家臣が切腹に応じず逃亡することもある。 大名本人はいくら行動させても勲功が溜まらないことから、ゲームの進行とともに大名のみを使うようにするプレイヤーもいた。また知行地の増えた家臣を最前線の領地に転封し、あえてその国を敵に取らせることで、その家臣の知行地はなくなるが、なぜか家臣からの不満は出ないので、その分与えられる知行が増えるというテクニックも存在した。 一方で知行制は単に金や米を俸禄として与えるシステムより理解しづらい面があり、また論功行賞は家臣団が拡大するほど手間が膨大になる面もあった。そのためかシリーズで知行制の採用がシステムに採り入れられることも『嵐世記』まではなかった。
※この「論功行賞」の解説は、「信長の野望・覇王伝」の解説の一部です。
「論功行賞」を含む「信長の野望・覇王伝」の記事については、「信長の野望・覇王伝」の概要を参照ください。
「論功行賞」の例文・使い方・用例・文例
論功行賞と同じ種類の言葉
魏志に由来する四字熟語 | 読書三余 論功行賞 浮石沈木 |
- 論功行賞のページへのリンク