論功行賞と武田残党の追討とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 論功行賞と武田残党の追討の意味・解説 

論功行賞と武田残党の追討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)

甲州征伐」の記事における「論功行賞と武田残党の追討」の解説

3月21日織田信長諏訪到着し北条氏政使者から戦勝祝い受け取った3月23日3月29日には参加諸将対す論功行賞発表された。 滝川一益上野一国小県郡佐久郡 河尻秀隆穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国諏訪郡穴山替地徳川家康駿河一国 木義昌本領木曾谷安堵筑摩郡安曇郡 森長可高井郡水内郡更科郡・埴科郡 毛利長秀伊那郡 穴山梅雪本領甲斐河内安堵嫡子勝千代武田氏名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められ森成利美濃兼山城(長可の旧居城) 団忠正美濃岩村城(秀隆の旧居城) 一益は「安土名物と言われ茶器の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯冥加尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。また関東管領もしくはそれに準ずる権限の役に就いたとも言われている。(『信長公記』では「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」、『甫庵信長記』と『武家事紀』では「関東管領」と呼称されている。以上『信長軍の司令官 部将たちの出世競争谷口克広:著、中公新書より)。北条氏政は「駿河ひとかど働きをした」という評価得たものの、これといった恩賞はなかった。 同時に甲斐信濃の国掟も出された。 一、関役所、同駒口、取るべからざるの事。一、百姓前本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事。一、忠節立て置く外、廉がましき侍生害させ、或ひは追矢すべき事。一、公事等の儀、能々念を入れ穿鑿せしめ、落着すべき事。一、国諸侍に懇に扱ひ、さすが油断なき様、気遣ひすべき事。一、第一慾を構ふにつきて、諸人不足たるの条、内籍続にをひては、 皆々支配せしめ、人数抱ふべき事一、本国より奉公望みの者これあらば、相改め抱へ侯ものゝかたへ相届け其の上において、扶持すべきの事。一、城々普請丈夫にすべきの事、一、鉄炮・玉兵粮蓄ふべきの事。一、進退郡内請取、道を作るべき事。一、堺目入組少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事。右定めの外、悪き扱ひにおいては罷り上り直に訴訟申し上ぐべく候なり。 現代語訳 関所で税を徴収してならない農民から本年貢以外に税を課してならない忠節尽くしてくる者を取り立てる以外、抵抗してくる侍は自害させるか、追放せよ訴訟ごとについては念を入れて糾明解決しなければならない国侍たちは丁重に取り扱うべきだが、油断ないよう気を遣うこと。 支配者1人欲張る諸人不満に思うから、所領引き継いだ際はこれを皆に分け、また(新しく家臣召抱えること。 本国尾張美濃)の者のうち奉公を望む者がいたら、身元確かめ、その者を以前召抱えていた家へ連絡した上で奉公させること。 各城は丈夫に普請すること。 鉄砲弾薬兵糧蓄えておくこと。 各人治め領域内で道を作ること。 所領境目入り組んでいて争いになったとしても、憎しみあってはならない。右の定めの他にもし不都合な事があったら、(信長のところまで)参上して直接訴えよ4月入り信長甲斐向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初め富士山見たとされる4月3日には、武田氏歴代本拠である躑躅ヶ崎館焼け跡到着した一方信忠勢は武田残党追討開始し残党逃げ込んだ恵林寺包囲残党引き渡すよう要求したが寺側は拒否した残党引渡し拒んだ事によって恵林寺長谷川与次津田元嘉関成重赤座永兼の4人に焼き討ちされた。 この他織田では武田方の武将の首を差し出してきた農民に対して黄金下したため、これを見た農民達は武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上した。ここでは、武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆は厳しく追及処断されたが、上野信濃駿河の国衆についてはあまり追及されなかったようである。例外は、諏訪一族のうち織田氏抵抗した諏訪越中守ら、跡部勝資縁戚関係ある朝比奈信置・信良ら、織田徳川から離反した飯羽右衛門尉菅沼刑部丞菅沼伊豆守などである。この事実から、信長事後支配のため、武田本国である甲斐有力者滅ぼしそれ以外おおむねそのまま織田政権組み込もうとしたと考えられる。なお、『徳川実紀』では「家康信長命令そむいて武田家臣たちをかくまった」と記述されているが、これは信長出した国掟の内容矛盾する4月8日武田の上野、北信濃支配していた真田昌幸織田信長から、旧領一部与えられ織田政権組み込まれ織田氏重臣滝川一益与力武将となった。また沼田城には滝川益重入った。昌幸は次男信繁人質として滝川一益差し出した4月10日信長甲府出発し東海道遊覧向かった駿河得た家康から饗応を受けながら、4月13日江尻静岡市清水区)、16日浜松到り21日安土城凱旋した

※この「論功行賞と武田残党の追討」の解説は、「甲州征伐」の解説の一部です。
「論功行賞と武田残党の追討」を含む「甲州征伐」の記事については、「甲州征伐」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「論功行賞と武田残党の追討」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「論功行賞と武田残党の追討」の関連用語

論功行賞と武田残党の追討のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



論功行賞と武田残党の追討のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの甲州征伐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS