論功行賞と武田残党の追討
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「甲州征伐」の記事における「論功行賞と武田残党の追討」の解説
3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。 滝川一益:上野一国、小県郡・佐久郡 河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地) 徳川家康:駿河一国 木曾義昌:本領(木曾谷)安堵、筑摩郡・安曇郡 森長可:高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡 毛利長秀:伊那郡 穴山梅雪:本領(甲斐河内)安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた 森成利:美濃兼山城(長可の旧居城) 団忠正:美濃岩村城(秀隆の旧居城) 一益は「安土名物」と言われた茶器の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯の冥加が尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。また関東管領、もしくはそれに準ずる権限の役に就いたとも言われている。(『信長公記』では「関東八州の御警固」「東国の儀御取次」、『伊達治家記録』では「東国奉行」、『甫庵信長記』と『武家事紀』では「関東管領」と呼称されている。以上『信長軍の司令官 部将たちの出世競争』谷口克広:著、中公新書より)。北条氏政は「駿河でひとかどの働きをした」という評価を得たものの、これといった恩賞はなかった。 同時に甲斐・信濃の国掟も出された。 一、関役所、同駒口、取るべからざるの事。一、百姓前、本年貢外、非分の儀、申し懸くべからざる事。一、忠節人立て置く外、廉がましき侍生害させ、或ひは追矢すべき事。一、公事等の儀、能々念を入れ、穿鑿せしめ、落着すべき事。一、国諸侍に懇に扱ひ、さすが油断なき様、気遣ひすべき事。一、第一慾を構ふにつきて、諸人不足たるの条、内籍続にをひては、 皆々に支配せしめ、人数を抱ふべき事一、本国より奉公望みの者これあらば、相改め、抱へ侯ものゝかたへ相届け、 其の上において、扶持すべきの事。一、城々普請丈夫にすべきの事、一、鉄炮・玉薬・兵粮蓄ふべきの事。一、進退の郡内請取、道を作るべき事。一、堺目入組、少々領中を論ずるの間、悪の儀、これあるべからざるの事。右定めの外、悪き扱ひにおいては、罷り上り、直に訴訟申し上ぐべく候なり。 現代語訳 関所で税を徴収してはならない。 農民から本年貢以外に税を課してはならない。 忠節を尽くしてくる者を取り立てる以外、抵抗してくる侍は自害させるか、追放せよ。 訴訟ごとについては念を入れて糾明し解決しなければならない。 国侍たちは丁重に取り扱うべきだが、油断のないように気を遣うこと。 支配者1人が欲張ると諸人が不満に思うから、所領を引き継いだ際はこれを皆に分け、また(新しく)家臣を召抱えること。 本国(尾張・美濃)の者のうち奉公を望む者がいたら、身元を確かめ、その者を以前召抱えていた家へ連絡した上で奉公させること。 各城は丈夫に普請すること。 鉄砲、弾薬、兵糧を蓄えておくこと。 各人が治める領域内で道を作ること。 所領の境目が入り組んでいて争いになったとしても、憎しみあってはならない。右の定めの他にもし不都合な事があったら、(信長のところまで)参上して直接訴えよ。 4月に入り信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて富士山を見たとされる。4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。 一方、信忠勢は武田残党の追討を開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲、残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否した。残党の引渡しを拒んだ事によって恵林寺は長谷川与次・津田元嘉・関成重・赤座永兼の4人に焼き討ちされた。 この他、織田では武田方の武将の首を差し出してきた農民に対して黄金を下したため、これを見た農民達は武田方の名のあるものを探して殺し、その首を織田方に献上した。ここでは、武田家一門とその譜代家臣、および甲斐の国衆は厳しく追及・処断されたが、上野・信濃・駿河の国衆についてはあまり追及されなかったようである。例外は、諏訪一族のうち織田氏に抵抗した諏訪越中守ら、跡部勝資と縁戚関係にある朝比奈信置・信良ら、織田・徳川から離反した飯羽右衛門尉・菅沼刑部丞・菅沼伊豆守などである。この事実から、信長は事後の支配のため、武田の本国である甲斐の有力者は滅ぼし、それ以外はおおむねそのまま織田政権に組み込もうとしたと考えられる。なお、『徳川実紀』では「家康は信長の命令にそむいて武田家臣たちをかくまった」と記述されているが、これは信長の出した国掟の内容と矛盾する。 4月8日、武田領の上野、北信濃を支配していた真田昌幸は織田信長から、旧領の一部を与えられ、織田政権に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した。4月10日に信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。駿河を得た家康から饗応を受けながら、4月13日に江尻(静岡市清水区)、16日に浜松へ到り、21日に安土城に凱旋した。
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