45歳でプレーイング・マネージャーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 45歳でプレーイング・マネージャーの意味・解説 

45歳でプレーイング・マネージャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 19:40 UTC 版)

浜崎真二」の記事における「45歳でプレーイング・マネージャー」の解説

大会から帰る太平洋戦争勃発満鉄満州国出資して設立され満州映画入社甘粕正彦理事長の元で働くが、俳優としてでは無く厚生参与として社員スポーツ振興の為雇われた。浜崎甘粕恐れず自らの意見述べ困難な時局乗り越えるのはスポーツで心を一つにすることこそ最適と、放置され満映土地整地して、野球場のほかバレーボールバスケット施設の建設甘粕進言した。元々、野球好きだった甘粕野球部作るため満鉄から浜崎引き抜いたという証言もある。1944年運動施設完成するが、甘粕1945年終戦直後青酸カリ自決した終戦後ソ連支配下大連満人との地位逆転先に引揚げた知人からトンカツ屋を譲り受けソ連兵相手にこれを経営など苦心した小泉吾郎安藤忍と共に「実満戦」復活実現させた。1947年大連からようやく日本引き揚げ、まず六代目尾上菊五郎を頼ると小野三千麿らから、当時星野組大日本土木など新興勢力として台頭していた土建屋一つ熊谷組監督要請され一旦就任。しかし、後から前年中日監督務めしくじった早稲田出身竹内愛一総監督で迎えと言われ辞退した。 たまたま後楽園球場野球を見に行った慶應後輩当時阪急の代表をしていた村上実誘われ45歳選手総監督としてプロ野球入団。これは今でも日本プロ野球選手史上入団最年長記録であり、浜崎は最も古いNPB選手ともいわれるこの年秋、オープン戦巨人帯同し、三原脩口説かれ青田昇巨人返す。この1947年公式戦9月28日南海戦で総監督ながらマウンド上がり別所昭投げ合い初回先頭打者安井亀和本塁打打たれるも6回を2失点抑え野口二郎救援仰いで45歳初登板初勝利。他に投手として3試合登板勝利1。この年チーム不振から6月下旬から総監督として指揮権与えられると、5位から巻き返し一時3位上げるも打撃不振で4位に終わる。翌年1948年監督となり、既に46歳であったが、17試合登板3勝3敗。8月10日記録した先発勝利当時日本プロ野球史上最年長先発勝利記録であった46歳8か月0日)。この年加入させた塚本博睦らを積極的に走らせた。翌1949年には低い下馬評覆し武智修内藤幸三中谷準志玉腰忠義ら、効果的な補強天保義夫今西錬太郎投手をうまく使いこなしシーズン独走した巨人唯一勝ち越すなど2位躍進させた。 この頃八百長関与する選手多く、これの撲滅自身神戸親分から3か月追いかけ回されるなどチーム作りには苦心戦後初の黒人選手入団させたり、丸尾千年次スカウトにまだ高校生梶本隆夫契約させたりしたが、小林一三社長余り金にならない野球埋め合わせ阪急西宮球場競輪開催するなどの消極策をとっていた。(競輪人気集めて開催日増えがひどく荒れたと言われている)1950年の2リーグ分裂時には赤嶺昌志宇高勲他球団による主力選手引き抜き遭う。特に病気治した永利勇吉捕手全員他球団移籍し二枚看板一人今西錬太郎の他、主力がほとんど引き抜かれた。激高した浜崎は「赤嶺昌志絞首刑にしたい」と発言新聞掲載され赤嶺から「子供学校行けん」と言われたという。チーム唯一の捕手新人山下健だったが、開幕戦急病欠場となった際には捕手経験がない内野手明石武(後の明石晃一)が急遽捕手をすることになる事態となった一からチーム作り直さなければならない状態であった天保野口二郎らの頑張りで4位を保った。 「若い投手には任せてられない」と、1950年5月7日登板し48歳4か月勝利投手となり、日本プロ野球史上最年長勝利記録となる。同年11月5日には消化試合余興として、対戦相手毎日監督湯浅禎夫48歳1か月)と先発投手として投げ合い敗戦投手となる。この時の48歳10か月での出場当時日本プロ野球最年長記録となった日本プロ野球史上最年長勝利記録日本プロ野球史上最年長出場記録は、2014年9月5日49歳0か月山本昌中日ドラゴンズ)が先発登板勝利をあげるまで、64年間にわたり破られることがなく、現在はパ・リーグ最年長勝利記録パ・リーグ最年長出場記録になっている湯浅との合計90歳以上の顔合わせも、2012年4月15日山本昌中日46歳8か月)・金本知憲阪神44歳0か月)まで62年間なかった珍記録であった45歳上で勝利数は5。各カテゴリー投打主軸として活躍した万能選手打撃走力にも優れ三塁打二塁打安打打点盗塁などの最年長記録ホルダーでもある。投手の各最年長記録山本塗り替えられたが、打撃盗塁最年長記録多く保持している。 有望選手争奪は叶わず、「中西太荒巻淳広岡達朗小森光生も獲れた。阪急というのは万事手遅れなんだ」と話している。後年自著で「小林社長もう少し野球に金をかけてくれたら、阪急低迷長くはならなかったのでは」と綴った1952年獲ったジミー・ニューベリージョン・ブリットンは、浜崎が「白人戦勝国民で日本人バカにしているから黒人を獲ってくれ」と球団要請したものという。1953年には乏し戦力ながら、球団直訴して獲得した伊勢川真澄捕手ブリットンゲインズレインズ黒人3選手らの活躍優勝争い加わった終盤長打力不足から優勝した南海逆転許した2位健闘した。約6年指揮を執ったが1回優勝出来なかった事で責任をとり辞任した

※この「45歳でプレーイング・マネージャー」の解説は、「浜崎真二」の解説の一部です。
「45歳でプレーイング・マネージャー」を含む「浜崎真二」の記事については、「浜崎真二」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「45歳でプレーイング・マネージャー」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「45歳でプレーイング・マネージャー」の関連用語

45歳でプレーイング・マネージャーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



45歳でプレーイング・マネージャーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの浜崎真二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS