45歳でプレーイング・マネージャー
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「浜崎真二」の記事における「45歳でプレーイング・マネージャー」の解説
大会から帰ると太平洋戦争が勃発。満鉄と満州国が出資して設立された満州映画に入社。甘粕正彦理事長の元で働くが、俳優としてでは無く厚生部参与として社員のスポーツ振興の為雇われた。浜崎は甘粕を恐れず自らの意見を述べ、困難な時局を乗り越えるのはスポーツで心を一つにすることこそ最適と、放置された満映の土地を整地して、野球場のほかバレーボール、バスケット用施設の建設を甘粕に進言した。元々、野球が好きだった甘粕が野球部を作るため満鉄から浜崎を引き抜いたという証言もある。1944年、運動施設は完成するが、甘粕は1945年、終戦直後青酸カリで自決した。終戦後はソ連支配下の大連で満人との地位が逆転、先に引揚げた知人からトンカツ屋を譲り受け、ソ連兵相手にこれを経営など苦心したが小泉吾郎、安藤忍と共に「実満戦」復活を実現させた。1947年、大連からようやく日本に引き揚げ、まず六代目尾上菊五郎を頼ると小野三千麿らから、当時星野組、大日本土木など新興勢力として台頭していた土建屋の一つ熊谷組の監督に要請され一旦就任。しかし、後から前年中日の監督を務めしくじった早稲田出身の竹内愛一を総監督で迎えると言われ辞退した。 たまたま後楽園球場に野球を見に行ったら慶應の後輩で当時阪急の代表をしていた村上実に誘われ、45歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団。これは今でも日本プロ野球選手史上入団最年長記録であり、浜崎は最も古いNPB選手ともいわれる。この年秋、オープン戦を巨人と帯同し、三原脩に口説かれ青田昇を巨人に返す。この1947年の公式戦は9月28日南海戦で総監督ながらマウンドに上がり別所昭と投げ合い、初回先頭打者の安井亀和に本塁打を打たれるも6回を2失点に抑え、野口二郎の救援を仰いで45歳で初登板初勝利。他に投手として3試合登板勝利1。この年チームの不振から6月下旬から総監督として指揮権を与えられると、5位から巻き返し一時3位に上げるも打撃不振で4位に終わる。翌年1948年に監督となり、既に46歳であったが、17試合登板3勝3敗。8月10日に記録した先発勝利は当時の日本プロ野球史上最年長の先発勝利記録であった(46歳8か月0日)。この年加入させた塚本博睦らを積極的に走らせた。翌1949年には低い下馬評を覆し武智修、内藤幸三、中谷準志、玉腰忠義ら、効果的な補強と天保義夫、今西錬太郎両投手をうまく使いこなし、シーズンを独走した巨人に唯一勝ち越すなど2位と躍進させた。 この頃八百長に関与する選手が多く、これの撲滅に自身も神戸の親分から3か月追いかけ回されるなどチーム作りには苦心。戦後初の黒人選手を入団させたり、丸尾千年次スカウトにまだ高校生の梶本隆夫と契約させたりしたが、小林一三社長が余り金にならない野球の埋め合わせに阪急西宮球場で競輪を開催するなどの消極策をとっていた。(競輪が人気を集めて開催日が増え、芝がひどく荒れたと言われている)1950年の2リーグ分裂時には赤嶺昌志 や宇高勲ら他球団による主力選手の引き抜きに遭う。特に病気を治した永利勇吉ら捕手全員が他球団に移籍し、二枚看板の一人・今西錬太郎の他、主力がほとんど引き抜かれた。激高した浜崎は「赤嶺昌志を絞首刑にしたい」と発言。新聞に掲載され、赤嶺から「子供が学校へ行けん」と言われたという。チームで唯一の捕手は新人の山下健だったが、開幕戦で急病欠場となった際には捕手経験がない内野手の明石武(後の明石晃一)が急遽捕手をすることになる事態となった。一からチームを作り直さなければならない状態であったが天保、野口二郎らの頑張りで4位を保った。 「若い投手には任せてられない」と、1950年5月7日に登板し、48歳4か月で勝利投手となり、日本プロ野球史上最年長勝利記録となる。同年11月5日には消化試合の余興として、対戦相手の毎日監督湯浅禎夫(48歳1か月)と先発投手として投げ合い、敗戦投手となる。この時の48歳10か月での出場が当時の日本プロ野球最年長記録となった。日本プロ野球史上最年長勝利記録と日本プロ野球史上最年長出場記録は、2014年9月5日に49歳0か月の山本昌(中日ドラゴンズ)が先発登板し勝利をあげるまで、64年間にわたり破られることがなく、現在はパ・リーグ最年長勝利記録とパ・リーグ最年長出場記録になっている。湯浅との合計90歳以上の顔合わせも、2012年4月15日の山本昌(中日・46歳8か月)・金本知憲(阪神・44歳0か月)まで62年間なかった珍記録であった。45歳以上での勝利数は5。各カテゴリーで投打の主軸として活躍した万能選手で打撃や走力にも優れ、三塁打・二塁打・安打・打点・盗塁などの最年長記録ホルダーでもある。投手の各最年長記録は山本に塗り替えられたが、打撃・盗塁の最年長記録の多くは保持している。 有望選手争奪は叶わず、「中西太も荒巻淳も広岡達朗も小森光生も獲れた。阪急というのは万事手遅れなんだ」と話している。後年、自著で「小林社長がもう少し野球に金をかけてくれたら、阪急の低迷は長くはならなかったのでは」と綴った。1952年に獲ったジミー・ニューベリーとジョン・ブリットンは、浜崎が「白人は戦勝国民で日本人をバカにしているから黒人を獲ってくれ」と球団に要請したものという。1953年には乏しい戦力ながら、球団に直訴して獲得した伊勢川真澄捕手やブリットン、ゲインズ、レインズの黒人3選手らの活躍で優勝争いに加わった。終盤長打力不足から優勝した南海に逆転を許したが2位と健闘した。約6年指揮を執ったが1回も優勝出来なかった事で責任をとり辞任した。
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