2000年 - 2005年 フェラーリのジュニアチーム化とは? わかりやすく解説

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2000年 - 2005年 フェラーリのジュニアチーム化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 03:21 UTC 版)

ザウバー」の記事における「2000年 - 2005年 フェラーリのジュニアチーム化」の解説

2000年 ディニスフェラーリからのコネクションミカ・サロ加入コンストラクターズランキングは8位。 2001年 この年は、プロストから移籍ニック・ハイドフェルドと、無名新人キミ・ライコネン起用された。ライコネンは、下位カテゴリでの経験がほとんどなかったことからスーパーライセンス発給されず、4戦限定の仮ライセンスという形での参戦となった当初チームタイトルスポンサーであるレッドブルが、配下育成ドライバーであるエンリケ・ベルノルディ推薦したが、チーム代表ペーター・ザウバーはこれを拒否前述ラインナップ決定した。なおこの一件によりレッドブル2001年シーズンを以て保有するチーム株式売却しタイトルスポンサーからも下り同時にアロウズスポンサー契約締結しベルノルディを起用させている。 開幕戦にはハイドフェルド4位、ライコネン6位といきなりのダブル入賞その後ハイドフェルド第3ブラジルグランプリ自身初、チームとしても1998年以来となる表彰台獲得シーズン中正式にスーパーライセンス発給されライコネン着実に入賞重ねコンストラクターズランキングF1参戦開始以来最上位の4位となり、躍進果たした。これは、BARジャガーベネトンといった自動車メーカーワークスチーム上回る健闘であり、チームBMW買収される2005年までの最高成績となっている。 2002年 前年限りマクラーレン移籍したライコネン代わり前年ユーロF3000で8戦中6勝という圧倒的な成績チャンピオン獲得したフェリペ・マッサ起用した前年から継続起用ハイドフェルドとともにシーズン戦ったシーズン前半はルノー互角争いをするなど健闘見せるも、マシン開発進まずシーズン後半は苦戦強いられコンストラクターズランキングは5位と前年下回る結果となった第13戦アメリカグランプリでは、前戦イタリアグランプリマッサ下された翌戦での10グリッド降格ペナルティ回避するため、アロウズ撤退によりフリーとなっていたフレンツェン一時的に起用されている。 この年起用されマッサフェラーリとの契約にあったことを、後にマッサ自身明らかにしている。ザウバーフェラーリ両チームの間に直接的な資本関係があったわけではないが、この後ザウバー事実上フェラーリジュニア・チームとしての性格強まっていく。 2003年 フレンツェンがレギュラードライバーに復帰しチーム3年目ハイドフェルドドイツ人2人布陣となる。この年BARトヨタジャガーといった中堅チーム成長著しく開幕3戦で連続入賞を果たすものの、中盤戦以降はほとんどポイント取れないレース続いた。しかし、レースとなった15アメリカグランプリではピット戦略成功させ、に強いブリヂストンタイヤ助けもあり、フレンツェンチーム初となるリードラップ記録し3位表彰台獲得ハイドフェルドも5位入賞大量得点成功する。これにより、チームランキング6位でシーズン終えた。 第6戦オーストリアグランプリでは、スタートが2回やり直しになった結果フレンツェンクラッチ破損レース参加することができなかった。 3シーズンわたってザウバー支えたハイドフェルドこの年限りチーム去りフレンツェン引退決めている。チーム代表ペーター・ザウバーは、特にハイドフェルド放出苦渋の決断であり、マッサチーム復帰させたいフェラーリ意向働いたものだと、後に示唆している。 2004年 ドライバージョーダンから移籍イタリア人ジャンカルロ・フィジケラ新たに加わり前年フェラーリテストドライバーとして経験積んだマッサ復帰したこの年レギュレーション変更により、1つグランプリフリー走行から、予選決勝まで1基のエンジンで走ることとされた。前年エンジンでは耐久性問題があるため、フェラーリから最新型エンジン供給を受けることとなった同時にフェラーリ前年ギヤボックス供給も受け、それらを搭載したC23フェラーリ前年マシンF2003-GAそっくりの外観で、「青いフェラーリ」などと揶揄された。 チームパワーステアリングフェラーリ同型のものを採用する予定だったが、FIA却下されてしまったため開幕戦パワステなしで迎え、第2戦マレーシアグランプリではマッサステアリング重さに耐え切れずレース中にコースアウトしてしまう有様だった。またフェラーリ特化したブリヂストンタイヤザウバーにとっては硬すぎ、特に予選においてその扱い苦慮することとなる。第3バーレーングランプリでようやく自前パワステ導入され、そこでマッサシーズン初の入賞記録した中盤戦以降タイヤが硬すぎることを逆手取り予選大量に燃料積み後方スタートからピットインを減らす戦略採用、これが当たりフィジケラ第8戦カナダグランプリで4位に入賞するなどシーズン後半までポイント重ねることに成功するランキング前年同様6位であったが、ポイント前年15ポイント上回る結果となったフェラーリそっくりのマシンフェラーリドライバー採用するなど、ジュニアチームとして生きていくと見られていたザウバーであったが、この年限りミシュランタイヤへの変更表明するなどフェラーリとの距離が急速に開いていくこととなる。 シーズン中自動車用としては世界随一性能とされる風洞設備完成しシーズン後半のマシン開発役立てられた。 株式手放した後も、スポンサーとしてチーム参画していたレッドブルが、ジャガー・レーシング買収して翌年からレッドブル・レーシングとしてF1へ参戦開始したことで、スポンサー降りている。 2005年 前年完成した風洞施設フル活用し、前衛的なデザインC24完成させた。ところが開幕前にその風洞欠陥発覚マシン大幅改修必要になってしまった。またタイヤブリヂストンからミシュラン変更フェラーリ異なタイヤメーカー選択したことで、フェラーリジュニアチームからの脱却目指した。エンジン前年同様フェラーリ製だが、ギヤボックス自製戻された。 フィジケラルノー移籍に伴い1997年チャンピオンであるジャック・ヴィルヌーヴチーム加入。しかしチーム当初フィジケラ残留望んでいた上、ヴィルヌーヴウィリアムズルノーBARといったトップチームへの加入望んでいた経緯もあり、ヴィルヌーヴマシンセッティングなどでチームと度々対立する。しかし、前年から残留マッサ安定した走り見せ一方ヴィルヌーヴは全く良いレースができなかったことから、中盤戦以降ヴィルヌーヴチーム方針受け入れるようになり、第4戦サンマリノグランプリでは4位入賞を果たすなど、マッサ互角走り見せようになったシーズン中盤にチームBMW売却することが発表されチームとしてのザウバーこの年限りで(いったん)幕を閉じることとなったこれに伴いチーム翌年マシン開発シフトしランキングも8位に終わったまた、翌年よりBMWエンジン供給されることになるため、エンジン開発関与できなくなった後藤この年チーム離脱している。

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