1898-1905年:開始
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「ローベルト・ヴァルザー」の記事における「1898-1905年:開始」の解説
1898年以降、ベルンの日刊新聞の日曜版にヴァルザーの詩が発表され、1902年5月から1903年8月まで、後に本として刊行される「フリッツ・コハーの作文集」が掲載された。 日曜版の編集者J. V. ヴィートマンは紹介文で、ヴァルザーの雰囲気には「何か野生のままの純粋なもの、そして同時にきわめて繊細なものが表現」 されていると述べている。1899年以降、文芸誌『インゼル』もヴァルザーの詩や散文、初期の小劇を掲載した。 この時代に出版されたのは唯一、初めての作品『フリッツ・コハーの作文集』であり、1904年インゼル社から刊行された。出版社の都合であまり本は出版されなかったが、この初期にヴァルザーはきわめて生産的だった。この時期に書かれた合計80篇の詩が遺されており、さらに戯曲テキストや散文作品もある。ベルリン時代になって刊行された作品集には、初期の詩の多くも含まれている:『詩集(Gedichte) 』(1909, カール・ヴァルザーによる16のエッチングの挿絵付き)の40篇の詩の大部分は、1898年から1900年にかけて様々な新聞雑誌(『ブント紙(Der Bund)』日曜版、週刊誌『フライシュタット(Freistatt)』、文芸誌『オパール(Opale)』その他)で発表された。しかしそれらが本として刊行されたのは、ベルリン時代になってからのことだった。 『喜劇(Komödie)』(1919)に所収された諸作品も、創作時期は1900年頃に遡る。すでに1903年には戯曲の出版も計画されており、それはヴァルザーの出版社との手紙のやりとりの中で確認することができる。 『フリッツ・コハーの作文集』は元々は3巻本のうちの第1巻になり、第2、3巻として小劇と詩が出版されることになっていた。 1905年1月16日のインゼル出版宛の手紙でヴァルザーは次のように書いている: 「無理を申し上げるつもりはないのですが、第2巻(戯曲)の印刷を始めることをお考えかどうか、ここに丁重にお伺いいたします。第2巻にはさしあたり『少年たち』『詩人』『灰かぶり姫』が含まれることになるでしょう。これらはすべてインゼルで発表されております。フランツ・ブライは、まもなく『詩』が出版されることを望み、そうすればウィーンの 『ツァイト』 誌に、ある程度の長さの論説を書くつもりだということです。」 ヴァルザーの最初の本に対する論評は好意的であったにもかかわらず売れ行きは悪く、「1910年この本は値下げされたのち、まもなく投げ売りされた。」 かくして第2、3巻が刊行されることはなかった。 この生産的な初期には方言作品『池(Der Teich)』も成立したが、これは1966年にローベルト・メヒラー(Robert Mächler)の伝記で抜粋が印刷され、1972年、ヨッヘン・グレーフェン(Jochen Greven)編による全集の第12巻(1)で初めて全体が刊行されるに至った。『池』は方言で書かれた唯一のテキストであり、ベルンハルト・エヒテ(Bernhard Echte)によって創作時期は1902年と推定されている。 したがって、ヴァルザーの初登場には詩も散文テキストも含まれていたということができる。散文形式は– 生活費を稼ぐためのフェユトニストとして、また小説家としても- 創作期全体を通じてずっと維持されたが、詩の創作は3つの時期に限られている:初期(1898-1905)、ビール時代末期(1919-1920)、ベルン時代(1924-1931頃)。 事務室で月が覗きこむ ぼくらを、月は見ている 雇い主の厳しい視線にさらされて やつれきった哀れな事務員のぼくを。困りはて ぼくはぽりぽりうなじをひっかく。陽の当たる人生が続くそんなこと一度も味わったことがない。欠乏こそがぼくの運命、うなじをひっかくしかない雇い主の視線にさらされて。月は夜空に開いた傷口、星々はすべて 滴る血のしずく。花盛りの幸運から遠くはなれているけれど、都合よくぼくは慎み深くできている。月は夜空に開いた傷口。(1897/98) 最後の詩節には、ロマン主義もしくは当時非常に好まれていた新ロマン主義にありがちなクリシェーが用いられ、それが第1詩節で描写された簡素な人生の日常と、いわば「不器用に」関連づけられている。初期の散文作品と同様に、ヴァルザーはここで時代遅れの硬直した文学形式を「下方からの」(下っ端事務員の)新しい視点と結びつけ、それを新しい生で満たすことに成功している。ヴァルザーの初期のテキストは−この点では批判も意見が一致しているが- 事務室という当時としてはまだ新しかったテーマを文学に取り入れた事務員文学(Angestelltenliteratur) の初期の例とみなされている。 『フリッツ・コハーの作文集』に所収されている散文テキストでも同様のふるまいが見られる。ヴァルザーはここで、何千人もの学校生徒たちが古典作家の例に倣って作文で書かなければならない使い古されたテーマを扱っているが、その際直接アイロニーやパロディを用いることはない。彼は与えられた形式に対するほとんど奴隷のごとき崇拝によって、そうしたテーマの裏をかくのだ。それが彼の完全に非アイロニカルな方法であり、きわめて凡庸なテーマを真面目に自分のこととして扱い、新鮮なものであるかのように扱おうとする方法である。「自然について書くのは、とくに二学年Aクラスの生徒にとっては難しい。人間についてなら、まあ何とかなる。人にはそれぞれ確固とした特徴がある。でも自然はとてもぼんやりとして曖昧で、とても繊細で、捉えがたく限りない。それでも僕はやってみようと思う。困難と格闘するのが僕は大好きだ。それは血管の中の血液を駆り立て、感覚を刺激する。不可能なことは何もない、とどこかで聞いたことがある。」(『自然』1902) ここではヴァルザーの全作品を貫く特徴がすでに際立っている。慎ましさやへりくだり。しかしそれはあまりにも頑固なため、自分は服従しているといいつつ、服従する相手をそれだけいっそう弱らせ崩壊させるのだ。
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