1898–1918年
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「エドガー・ウォーレス」の記事における「1898–1918年」の解説
ウォレスは1898年にケープタウンでラドヤード・キップリングに出会って多大な影響を受け、詩と歌の出版を始める。この年に最初のバラッド『失敗した任務!』を刊行。ケープタウンでは計3冊の詩集を刊行する。1899年に除隊して、執筆専業となる。彼はアフリカに留まって従軍記者となり、第2次ボーア戦争の期間中、最初にロイターの、1900年からは『デイリー・メール』紙や他の雑誌に執筆した。 1901年に南アフリカにおいて、アイビー・モード・コールデコット(1880?-1926)と、ウェスレー派牧師である父ウィリアム・ショー・コールデコットの強い反対を押し切って結婚。最初の子供のエレノア・クレア・ホイラー・ウォーレスは、1903年に髄膜炎のため急死し、失意の中で彼らはロンドンに帰る。 ウォレスはロンドンでデイリー・メールで働き、同時に手っ取り早く稼ぐために推理小説を書き始める。1904年に息子ブライアン、1908年に娘のパトリシアが誕生。1903年には、それまで知らなかった生みの母ポリーに対面、60歳で末期的病状、貧しく、金を無心したが追い返され、ブラッドフォードの病院でその年の末に死去した。 ウォレスは本の後援者を見つけられないため、自ら出版社「Tallis Press」を立ち上げ、1905年にスリラー『正義の4人(The Four Just Men)』を出版。郵便による宣伝で好調に売れたが、最終的に経営は悪化し、デイリー・メール経営者のアルフレッド・ハームズワースが彼自身の新聞社への悪影響を懸念したために、ウォレスは手を引かざるを得なくなった。ウォーレスの報告の不正確さが、さらに中傷を生んでデイリー・メールへ届けられてたことも問題となる。1907年にウォーレスは解雇され、彼はその評判のためにどの新聞社も雇ってもらえなくなっていた。家族は破産に近い状態となり、妻のアイビーは生活のために宝石を売らざるを得なくなった。 ウォーレスは1907年に、レオポルド2世とゴム会社による、1500万人のコンゴ人が殺害されるという残虐行為を報告するために、コンゴ自由国を旅した 。ペニー雑誌『Weekly Tale-Teller』のイザベル・ソーンは、ウォーレスの経験を元にした連載物を依頼する。これが1911年に『Sanders of the River』として出版されてベストセラーとなり、1935年には同名で映画化されてポール・ロブスンをスターダムにのし上げた。以後11冊の同種の作品集を出版、それらはエキゾチックな冒険やその地の部族儀礼の物語で、アフリカの川を舞台とし、ほとんどは恋愛もウォーレスの主張も含まない物だった。彼は最初の28冊の本とその映画化権を、直近の収入のために版権抜きで売り払った。1987年になって批評家のデイヴィッド・プリングルは「Sandersの本は、あからさまな差別主義のために現代ではあまり再版されることはないだろう」と記している。 1908から1932年までの間は、ウォーレスの生涯で最も多産な時期だった。初期には主に、イギリスと南アフリカの債権者のために書いた。彼の成功は、ジャーナリストとしての評判を回復し、競馬界の記事を書くようになる。『ウィークエンド』誌、『イブニングニュース』誌に執筆し、『Week-End Racing Supplement』の編集者となり、彼自身の競馬紙『Bibury's』『R. E. Walton's Weekly』を始め、多くの競走馬を購入した。賭け事で多額を失い、その成功にもかかわらず浪費的な生活のために余裕は持てなかった。アイビーは1916年に最後の子供マイケル・ブレア・ウォーレスを生み、1918年の離婚を準備していた。
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