1596年の禁教令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:45 UTC 版)
詳細は「日本二十六聖人」および「サン=フェリペ号事件」を参照 秀吉は1596年に再び禁教令を出し、さらに京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて処刑した(日本二十六聖人)。 1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている。 この禁教令が発令された理由についてはよく「サン=フェリペ号事件」が挙げられる。通説においては、[要検証 – ノート]巨額の積荷を没収されたサン=フェリペ号の一人の船員が憤り、宣教師はスペインが領土征服のための尖兵であると積荷を没収された腹いせに発言したことで、秀吉がキリスト教を警戒したためという説がある。サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉はフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしている。豊臣政権はアジアにおけるスペインの脆弱な戦力を正確に把握しており、スペイン人船員の口から出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が宣教師脅威論を真に受けたかについての結論は出ておらず、それどころかフィリピン侵略に乗り気であった。 1592年に豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した。 1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本がフィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。 フィリピンに黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない ロペスはまた日本人にフィリピンの軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた。 その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった。 宣教師脅威論については、アメリカ大陸やフィリピンでのスペインやポルトガルの侵略は軍事作戦だけで行われていた。フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ制圧の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルヴァレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである。宗教を絡めないイギリス、オランダ等は東南アジアの植民地化に成功している。 スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた。 私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています。 — 1586年、スペイン国王フェリペ2世 スペイン側の視点では新領地獲得には否定的であることが判明しているにも関わらず、日本側は宣教を征服の一部と一方的な主張をしているが、この説を裏付けるものはガレオン船8隻の建造費に相当する巨額の財宝を没収された事に動揺した船員が怒りにまかせて口に出した出任せでしかなく、絶対的な軍事的優位を背景にフィリピン総督に服従せねば征伐すると勧告した豊臣秀吉がフィリピンからの侵略を恐れていたことを裏付ける資料もない。 1596年の禁教令において信徒に対する強制改宗などの政策は取られず、京都のフランシスコ会以外には弾圧は加えられなかった。キリスト教は建前上は禁止だがお目こぼしを受けていたという情勢下で、フランシスコ会を始めとする新参の修道会の活動が目に余ったために秀吉が弾圧に踏み切ったという説もある(古参のイエズス会は活動の自粛を促していたが、新参の修道会はそれを無視していた)。
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