通称地名
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現代の白塚町では、自治会などの住民組織に加え、民生委員の担当地区は下記の通称地名の町割り単位で設定されている。各町を示す標識は特になく、その正確な範囲を現地で知ることは難しい。 西町1丁目 - 南西部 西町2丁目 - 南西部 西町3丁目 - 南西部 南町 - 南部 住吉町 栄町 本町 - 公民館付近 中の町 東浜町 - 南東部 三の宮町 旭町 - 白塚郵便局付近西 口起 東 小山 新町1丁目 - 白塚駅東側 新町2丁目 - 白塚駅東側 新町3丁目 - 白塚駅東側 新町 - 白塚駅東側中 北東 北西 白塚団地 - 白塚駅北西 美松園 - 近鉄白塚体育館北側
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通称地名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 18:01 UTC 版)
正式町名である今津のほかに、濱崎(はまさき)、本町(ほんまち)、岡(おか)、緑町(みどりまち)、大原(おおばる)の通称町名が慣用的に用いられており、それぞれに町内会が組織されている。
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通称地名
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稲葉(いなば) 香良洲町北東部に位置し、三重海軍航空隊が設置されていた。跡地は宅地化し、戦後の一時期は塩田として利用された。梨栽培が盛んで、香良洲漁港が置かれている。郵便番号は514-0311。 川原(かわら) 香良洲町北部の雲出川古川沿いにあり、「北新町」と呼ばれる三重海軍航空隊の将校住宅地から一般の住宅地となった地域を含む。梨や稲の栽培が行われる。郵便番号は514-0326。 小松(こまつ) 香良洲町の中央に位置し、漁業世帯と兼業農家が多い。海苔養殖が行われている。郵便番号は514-0312。 桜町(さくらまち) 香良洲町西部に位置し、桑畑や荒れ地を開拓して造られた三重海軍航空隊下士官住宅地を起源とする。津市立香海(こうかい)中学校がある。郵便番号は514-0325。 地家(じけ) 雲出川と雲出川古川の分岐点にあり、第二次世界大戦前までは堤防沿いの桜並木は花見客で賑わった。香良洲西山遺跡や常夜灯がある。郵便番号は514-0324。 砂原(すなはら) 香良洲町中心部に位置し、漁業世帯が多い。香良洲漁協が置かれている。郵便番号は514-0321。 高砂(たかさご) 香良洲町南東部に位置し、香良洲公園や海水浴場がある。雲出川を利用して米倉や貯木場が発達し、醸造業も行われたが、現在は漁業や水産加工業が中心である。海苔とウナギの養殖、梨の栽培が行われる。郵便番号は514-0314。 馬場(ばば、地域住民の間では「ばんば」) 香良洲町南部に位置し、矢野学校(津市立香良洲小学校の前身)や劇場「香良洲座」が存在した。香良洲町の中心としての機能を有し、商店街や津市役所香良洲総合支所がある。郵便番号は514-0323。 浜浦(はまうら) 香良洲町南東部に位置し、三重海軍航空隊の飛行場用地であったが、現在は宅地化され、津市立香良洲小学校が立地する。予科練の名残として若桜の碑や津市香良洲歴史資料館(旧・若桜福祉会館)がある。郵便番号は514-0313。 東山(ひがしやま) 香良洲町中心部の南に位置し、漁業世帯が多い。海苔養殖が営まれる。郵便番号は514-0322と設定されていたが、廃止された。
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通称地名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:46 UTC 版)
鳥羽には以下のような通称地名(「町」)がある。これらの「町」は、町内会や神社の氏子地域の単位として常用され、1878年(明治11年)まで答志郡の町だったもの(☆印)もある。鳥羽の小字と同名のもの(◎印)もある が、「町」の指す範囲は小字の範囲よりも広い。岩崎など2つの丁目にまたがる「町」もある。 「町」の境界にはたいてい川や水路があり、祭りの際には町境でもめ事が発生したり、祭りで他町を通る時には若者が事前に許可をもらいに行ったりと厳然とした境界があったが、暗渠化や埋め立てで水路が地上からなくなり、曖昧になりつつある。 岩崎(いわさき) 岩崎町とも称する。旧武家屋敷地で、鳥羽のエリート階級が暮らす街であった。明治初期には丸ノ内(鳥羽城郭内)と合併して錦町の一部となっていた。佐田浜も岩崎町の一部であり、鳥羽一番街の設立時に町として出資している。千代田生命保険(現・ジブラルタ生命保険)創業者の門野幾之進の出身地である。 本町(ほんまち)☆◎ 鳥羽城の西にある旧町人地であり、南に大里、東に岩崎がある。堅神や伊勢国方面から鳥羽城下に入る峠坂(焼飯坂)があり、門番が常駐していた。 大里(おおさと)☆◎ 大里町とも称し、「おおざと」と濁音で読むこともある。鳥羽城の西にある旧町人地であった。建武2年12月6日(ユリウス暦:1336年1月19日)の史料に「泊浦大里岩崎」の文字が見られ、当時は(現代の)大里から藤之郷までを指すより広範な地名であった。小里に対して大きい里という意味であるが、現代の鳥羽に小里の地名は残っていない。大里の東側、横町寄りの地域はかつて潟町(かたまち)と呼ばれていた。志摩国最大の寺院・常安寺の所在地。 錦町(にしきまち)☆◎ 丸ノ内(鳥羽城郭内)と埋め立てた城の堀跡から成る。1871年(明治4年)に、鳥羽湾の別名「錦浦」にちなんで命名された。鳥羽市役所が置かれ、近代以降も鳥羽市の行政の中心であり続けている。 横町(よこまち)☆◎ 鳥羽城の西にある旧町人地であり、旧町人地の中央に位置する。町名は、本町・大里から横に連なる町という意味である。 中之郷(なかのごう)☆◎ 小字名としては中之郷町。旧町人地で、九鬼氏の治世下(江戸時代初期)に藤之郷から分離した。港町鳥羽の中心であり、船問屋や船宿、商家が立ち並んでいた。現代でも商家の名残の狭い間口と長い奥行き、各家の蔵を確認することができる。大正時代に発生した火災の名残で、焼失地域と非焼失地域では道幅が異なっている。 藤之郷(ふじのごう)☆◎ 小字名としては藤之郷町。鳥羽城の南にある旧町人地。町人地であったが最も多いのは漁師であった。鳥羽藩歴代の藩主の関船を納める船倉があった。 奥谷(おくだに)☆◎ 旧武家屋敷地。西念寺の敷地であったが、土井利益の藩主時代(1681年 - 1691年)に寺を移転して士地とした。奥谷川(問屋川)が流れ、弘法井戸がある。 赤崎(あかさき)◎ 藤之郷の南に位置し、元は藤之郷の一部であった。旧鳥羽町(現・鳥羽四丁目)と旧船津町(現・鳥羽五丁目)にまたがって同名の小字があり、双方にまたがって赤崎鉱山があった。「赤崎金山」という小字もあるが、実際に採掘していたのは銅である。赤崎神社がある。 上記の「町」のうち、旧町人地である本町と大里を合わせて「両町」、横町・中之郷・藤之郷を合わせて「三町」と呼ぶ。また、平成以降は中之郷以南の地域を「鳥羽なかまち」と称し、地域住民がまちづくり活動を展開している。
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通称地名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:47 UTC 版)
奈良町(ならまち) - 奈良県奈良市のうち、江戸時代中期の『奈良町絵図』に描かれた奈良町の区域を指す現在の地名。ならまち - 上記のうち国道369号よりも南の区域。特に、奈良町都市景観形成地区に指定された、元興寺周辺の伝統建築群地域を指すことが多い。奈良市では「奈良町」と「ならまち」とを使い分けており、前者には「ならまち」の北側にある「きたまち」南側の「京終」も含む。
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