転居とバンドの開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:34 UTC 版)
「ジェリー・ガルシア」の記事における「転居とバンドの開始」の解説
1960年にガルシアは母親の車を盗み、その罰として陸軍への入隊を強制された。彼はフォート・オードで基礎訓練を受ける。訓練後、プレシディオのフォート・ウィンフィールド・スコットに転属された。ガルシアは陸軍での自分の時間の大半を自分の趣味に費やし、点呼を欠席し、何度となく無断欠席した。その結果1960年12月14日に軍を除隊させられた。 1961年1月、ガルシアは中学時代の友人、レアード・グラントに会うためイーストパロアルトをドライブしていた。彼は軍のコックから1950年キャデラックセダンを買ったが、それが壊れる前にかろうじてグラントの家にたどり着いた。ガルシアはグラントの許しを得て数週間を彼の家で過ごし、結局彼の車を家代わりに使った。グラントを通じてガルシアは2月にディヴ・マックィーンに出会う。マックィーンはガルシアのブルースを何曲か聴き、彼を地元の人々や、スタンフォード大学そばの人気の下宿宿であったシャトーに紹介した。 1961年2月20日、ガルシアは16歳のアーティストで知人のポール・スピーゲル、シャトーの管理人であるリー・アダムズ、彼らの友人であるアラン・トリストと車に乗っていた。スピードを出してパロアルト退役軍人病院を過ぎ、車はカーブにさしかかった。車は時速90マイルの速度でガードレールに衝突、大きく横転した。ガルシアは文字通り靴から投げられたように、車のフロントガラス越しに外に投げ出され、後にそのことを思い出すことができなかった。運転していたリー・アダムズと、後部座席に座っていたアラン・トリストは同様に車から投げ出され、腹部負傷と脊柱骨折の重傷を負った。ガルシアは鎖骨を折りながらも安全な場所に逃げ出したが、スピーゲルは致命傷を負って車の中に残されていた。 ガルシアはこの事故で目覚め、後に「それは、私の人生が始まった所である。それまで私はいつも能力より少なく生きていた。私は怠けて過ごしていた。それは私の残りの人生のスリングショットであった。それは2番目のチャンスのようであった。それから私は真面目になった。」とコメントした。このとき、ガルシアはギターを本気で行う必要があることに気がつき始めた。これは彼の絵画に対する愛着をあきらめることを意味していた。 1961年4月、ガルシアは初めてロバート・ハンターと出会う。ハンターは後に深い友人となり、グレイトフル・デッドの作詞家としてガルシアに協力することとなる。2人はそれぞれサウスベイとサンフランシスコのアートおよびミュージックシーンで活動し、しばしばメンローパークのケプラーズ・ブックスで共に演奏した。ガルシアは自身初のコンサートをハンターと共に行い、それぞれ5ドルを得た。ガルシアとハンターはまた、ワイルドウッド・ボーイズというバンドでデヴィッド・ネルソンと共に演奏した。ネルソンは後にニュー・ライダース・オブ・ザ・パープル・セイジに参加し、いくつかのグレイトフル・デッドの作品にも参加している。 1962年、ガルシアはメンローパークのペリーレーン近郊(ケン・ケーシーが住んでいたところ)で行われたパーティーで、後にグレイトフル・デッドのベーシストとなるフィル・レッシュと出会う。レッシュは後に自伝で、ガルシアに出会い「暗く、巻き毛で、ヤギ髯、印象的な目」から作曲家ドビュッシーの写真を思い出したと記している。パロアルトでの別のパーティーで、レッシュはガルシアにアプローチし、レッシュのテープレコーダーで録音を行い、バークレーのラジオ局KPFAでのラジオショーをプロデュースした。古いウォレンサックのテープレコーダーで彼らは「マティ・グローブス」と「ロング・ブラック・ベール」などの曲を録音した。彼らの努力は無駄にはならなかった。これらの録音は90分の特別番組「"The Long Black Veil and Other Ballads: An Evening with Jerry Garcia"」としてKPFAで放送された。KPFAとグレイトフル・デッドの関係は今日まで続き、その中には多くの募金活動、インタビュー、ライブコンサート放送、バンドの演奏のレコーディングおよび終日またはすべての週末に放送される「デッド・オンリー」マラソンが含まれた。 ガルシアは間もなく、アコースティックギターとバンジョーの演奏を始め、教え始めた。ガルシアから教わった内の1人にボブ・マシューズがいたが、後に多くのグレイトフル・デッドのアルバムでエンジニアリングを務めている。マシューズはメンロー・アサートン高校に通い、ボブ・ウェアと友人関係にあった。1963年の大晦日に、マシューズはガルシアにウェアを紹介した。 1962年から1964年まで、ガルシアは主にブルーグラス、オールドタイム(英語版)、フォークを演奏した。ガルシアと共にブルーグラスを演奏したバンドには、スリーピー・ホロウ・ホッグ・ストンパーズがある。ストンパーズはガルシアがギター、バンジョー、ハーモニカ、ヴォーカル、マーシャル・レスターがバンジョー、ギター、ヴォーカル、ディック・アーノルドがフィドルとヴォーカルを担当した。その後間もなく、ガルシア、ウェア、ロン「ピッグペン」マッカーナンと何人かの友人でジャグ・バンドのマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンを結成した。この頃、サイケデリックなLSDが人気を得ていた。ガルシアが初めてLSDを使用したのは1964年であった。後に、それがどのように人生を変えたか尋ねられたときに、彼は次のように語った。「ああ、それは全てを変えた[...]その効果は私を自由にした。なぜなら私は、私の連続した人生における小さい試みと、そうすることは本当はフィクションで、ちょうどうまくいきそうにないと突然理解したからだ。幸運にも私は、何か粉々になっているために、それに十分ではなかった。それはちょうど、私を非常に安心させる実感のようであった。」 1965年、マザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンはベースのフィル・レッシュ、パーカッションのビル・クルーツマンが加入し、ワーロックスへと進化した。しかし、バンドは同名のグループ(それは後にヴェルヴェット・アンダーグラウンドになる)が存在していることに気付き、名前の変更の必要に迫られた。ガルシアはファンク・アンド・ワグネル(英語版)の辞書を開き、「グレイトフル・デッド」を見つけた。「グレイトフル・デッド」の定義は、「慈善行為として死者の埋葬を手配した人物に対して謝意を示す死者または天使」であった。バンドの最初の反応は芳しいものではなかった。ガルシアは後にグループの反応を説明した。「私は本当はそれを好きではなかった。そして、本当に強力であることが判明した。[ボブ]ウェアはそれが好きでなかった。[ビル]クルーツマンはそれが好きではなく、そして、誰も本当にそれについて聞かされたくなかった。[...]」名前に対するメンバーの嫌悪感にもかかわらず、それはすぐに口コミによって広がり、まもなく彼らの公式名称になった。
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