記念碑と発祥地碑
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軍令部總長伏見宮博恭王殿下飛行御上陸記念碑 - 画像 下関駅方面の「市立美術館前」バス停のすぐ近くにある石碑で昭和9年(1934年)3月14日に軍令部総長の伏見宮博恭王が呉から飛行機で上陸してきたのを記念として建てた石碑である。碑文は当時の山口県知事菊山嘉男が書いたもので、題字は海軍大臣大角岑生が書いた。伏見宮博恭王殿下上陸記念会には菊山嘉男はもちろん松井信助、林平四郎、貝島太市、白石直介らも参加していた。 維新発祥之地の記念碑 - 画像 長府中浜町にある石碑で、長府で功山寺挙兵が発端となり明治維新へと進んだことから、下関長府ライオンズクラブが長府を明治維新発祥の地として称え、建てたものである。石碑設立日は昭和60年(1985年)3月17日。題字は元下関市長の泉田芳次、石碑の付近にある碑文は元長府図書館長の中原郁生により書かれた。 高杉晋作回天義挙之所の碑 - 画像 功山寺入口左側にある「高杉晋作回天義挙之所」と書かれた石碑。大正9年(1920年)12月24日に設置された。題字は山口県出身の評論家として知られる横山健堂による。回天義挙(功山寺挙兵)に関しては功山寺挙兵の節を参照。 明治天皇長府行在所の碑 - 画像 旧長府毛利邸入口左側にある「明治天皇長府行在所」と書かれた石碑。昭和13年(1938年)3月に建てられた。碑文には「史蹟として昭和十一年十一月文部大臣指定」とあるが、戦後、明治天皇聖蹟は史跡指定から解除されたため、現在は史跡に指定されていない。 毛利子邸記念の碑 - 画像 碑文の題が「毛利子邸記念」と書かれた石碑で毛利邸建物入口左側にある。撰文は内大臣を務めたことで知られる徳大寺実則で大正元年(1912年)11月に建てられた。 行啓記念碑 前田砲台跡にある行啓記念碑。碑文は正七位勲七等の桂文吾により書かれた。理由は不明だが行啓記念碑の台には前田・高畑地区の荒れた田畑約40町歩を整理した前田耕地整理組合についての碑文が書かれている。 皇太子陛下駐駕之碑 昭和6年(1931年)5月31日に実業家、貝島太市が自分の別荘であったところに建てた石碑。石碑の碑文は貝島太市本人によるもので、題字は伊藤博邦(伊藤博文の養子)が書いた。貝島太市の別荘は大正15年(1926年)5月31日に当時皇太子であった昭和天皇が休憩した場所であり、それを記念してこの石碑を本人が建てたということである。また、その後も貝島太市の別荘には皇室関係者が訪問し、昭和8年(1933年)8月20日に三笠宮崇仁親王(当時澄宮)、同年9月30日に閑院宮春仁王と妃直子、同年10月12日に竹田宮恒徳王妃光子、昭和16年(1941年)9月23日に梨本宮守正王が訪問している。 鮎川家記念碑 功山寺墓地中央参道にある六角形の塔とその上の三層の石塔からなる記念碑。これは墓ではなく、鮎川家の墓は東京の多磨霊園にある。碑文と逆側には観音立像が置かれてあり、この記念碑と観音立像は鮎川義介により設置されたものである。 正円寺大イチョウの碑 - 画像 全部で3つあり、正円寺入口に下関市教育委員会により建てられた「山口県指定天然記念物長府正円寺の大イチョウ」の碑と大イチョウのすぐ真下にある「大銀杏樹 最清浄 鼓石山正円寺」の碑・「天然記念物」の碑がある。この大イチョウの樹齢は1000年以上にもなると言われており、そのため乳柱も伸びている。昭和44年(1969年)2月4日に山口県指定天然記念物に指定された。 天然記念物干珠樹林の碑 満珠島・干珠島のうち一般的には満珠島と呼ばれる方(陸から遠い方)に建てられた「天然記念物干珠樹林」と刻まれた石碑。満珠・干珠島の詳細は島節を参照。 手植の杉の碑 - 画像 明治元年(1868年)に乃木希典が父の乃木希次に指示されて植えた杉についての記念碑。かつては2本植えられてあったと言われているが現在は1本しか残っていない。 洗心功徳水の碑 - 画像 功山寺本堂前の井戸の隣にある石碑。桂弥一が建てたもので、「洗心功徳水」と書かれてある。なお、この井戸が「洗心功徳水」ということではなく、功山寺山門左側の水路が「洗心功徳水」であり、その付近には「父母滴水」と書かれた石碑がある(画像)。桂弥一自身はこの水について「墓地に来る人が重たそうに水を持ってくるのに感心せず、神戸の湊川神社の神主に井戸を掘っていることについて説明したとき、堤から水を引くことをふと思いついた」と語っている。 七卿遺蹤(いしょう)碑 - 画像 功山寺本堂前にある記念碑で、七卿落ちした公卿が一時的に功山寺に滞在していたことについて書かれている。大正元年(1912年)に建てられたもので、題字・碑文はともに毛利元雄が書いた。碑文には七卿とあるものの、実際に功山寺に滞在していたのは三条実美(さねとみ)、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世(ひがしくぜ)通禧(みちとみ)、壬生(みぶ)基修(もとおさ)の五卿であり、そのころ澤宣嘉(のぶよし)は生野の変以来合流しておらず、錦小路頼徳(よりのり)はすでに病死していた。 八幡御旅所の碑 - 画像 忌宮神社の御旅所に建てられた石碑。大正15年(1926年)の整備と同時に建設が決まり、昭和3年(1928年)11月に忌宮神社宮司の鳴瀬嘉貞によって建てられた。忌宮神社の御旅所はかつては長門三の宮であったともいわれている。 軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑 - 画像 長府野久留米町にある記念碑。軍神とも呼ばれた広瀬武夫が旅順口の戦いで清に行く前に海軍少尉であった福田久槌の墓を訪れたことから福田久槌の遺族らが建てたものである。石碑は昭和10年(1935年)に建てられた。 尊攘堂並に萬骨塔建設由来の碑 - 画像 旧長門尊攘堂(元長府博物館)前にある石碑。昭和8年(1933年)10月20日に建てられた。碑文はこの長門尊攘堂を設立した桂弥一によって書かれたものである。 徳永山の碑 - 画像 長府安養寺町の長府配水場入口付近に建てられた石碑。のちに長府町長となった徳永安兵衛(1858-1923)が自分の所有していた山を豊浦小学校に寄付したことの記念として長府町長、原田政佳が大正5年(1916年)4月1日に建てたものである。昭和12年(1937年)以来、徳永山(妙見山)の所有権は下関市に移り、長府配水場ができた。 蠶種渡来之地の碑 - 画像 長府図書館横にある石碑。題字は大日本蚕糸会会頭の牧野忠篤、碑文は石碑設立当時の山口県知事菊山嘉男により書かれた。長府は仲哀天皇4年(195年)に弓月君の父に当たる功満王により蚕の卵が日本で初めて伝えられた場所であるとされ、募金活動の結果、昭和8年(1933年)に石碑が設立された。 史蹟長門鑄錢所阯の碑 - 画像 覚苑寺の階段左にある「史蹟長門鑄錢所阯」と書かれた史跡指定の記念碑。昭和8年(1933年)9月に建てられた。
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