記念碑と発祥地碑とは? わかりやすく解説

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記念碑と発祥地碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)

長府」の記事における「記念碑と発祥地碑」の解説

軍令部總長伏見宮博恭王殿下飛行御上記念碑 - 画像 下関駅方面の「市立美術館前」バス停のすぐ近くにある石碑昭和9年1934年3月14日軍令部総長伏見宮博恭王が呉から飛行機上陸してきたのを記念として建てた石碑である。碑文当時山口県知事菊山嘉男書いたもので、題字海軍大臣大角岑生書いた伏見宮博恭王殿下上陸記念会には菊山嘉男はもちろん松井信助林平四郎貝島太市白石直介らも参加していた。 維新発祥之地の記念碑 - 画像 長府中浜町にある石碑で、長府功山寺挙兵発端となり明治維新へと進んだことから、下関長府ライオンズクラブ長府明治維新発祥の地として称え建てたのである石碑設立日は昭和60年1985年3月17日題字は元下関市長の泉田芳次石碑付近にある碑文は元長府図書館長の中原郁生により書かれた。 高杉晋作回天義挙之所の碑 - 画像 功山寺入口左側にある「高杉晋作回天義挙之所」と書かれた石碑大正9年1920年12月24日設置された。題字山口県出身評論家として知られる横山健堂よる。回天義挙(功山寺挙兵)に関して功山寺挙兵の節を参照明治天皇長府行在所の碑 - 画像長府毛利邸入口左側にある「明治天皇長府行在所と書かれた石碑昭和13年1938年3月建てられた。碑文には「史蹟として昭和十一十一月文部大臣指定」とあるが、戦後明治天皇聖蹟史跡指定から解除されたため、現在は史跡指定されていない毛利子邸記念の碑 - 画像 碑文の題が「毛利子邸記念と書かれた石碑毛利邸建物入口左側にある。撰文内大臣務めたことで知られる徳大寺実則大正元年1912年11月建てられた。 行啓記念碑 前田砲台跡にある行啓記念碑碑文正七位勲七等桂文吾により書かれた。理由不明だが行記念碑の台には前田高畑地区荒れた田畑40町歩整理した前田耕地整理組合についての碑文書かれている皇太子陛下駐駕之碑 昭和6年1931年5月31日実業家貝島太市自分別荘であったところに建てた石碑石碑碑文貝島太市本人よるもので、題字伊藤博邦伊藤博文養子)が書いた貝島太市別荘大正15年1926年5月31日当時皇太子であった昭和天皇休憩した場所であり、それを記念してこの石碑本人建てたということである。また、その後貝島太市別荘には皇室関係者が訪問し昭和8年1933年8月20日三笠宮崇仁親王当時澄宮)、同年9月30日閑院宮春仁王と妃直子同年10月12日竹田宮恒徳王光子昭和16年1941年9月23日梨本宮守正王訪問している。 鮎川家記念碑 功山寺墓地中央参道にある六角形の塔とその上三層石塔からなる記念碑。これは墓ではなく鮎川家の墓は東京多磨霊園にある。碑文と逆側には観音立像置かれてあり、この記念碑観音立像鮎川義介により設置されたものである正円寺大イチョウの碑 - 画像 全部3つあり、正円寺入口下関市教育委員会により建てられた「山口県指定天然記念物長府正円寺大イチョウ」の碑と大イチョウのすぐ真下にある「大銀杏清浄石山正円寺」の碑・「天然記念物」の碑がある。この大イチョウ樹齢1000年以上にもなると言われており、そのため乳伸びている。昭和44年1969年2月4日山口県指定天然記念物指定された。 天然記念物干珠樹林の碑 満珠島・干珠島のうち一般的には満珠島呼ばれる方(陸から遠い方)に建てられた「天然記念物干珠樹林」と刻まれ石碑満珠・干珠島詳細は島節を参照。 手植のの碑 - 画像 明治元年1868年)に乃木希典が父の乃木希次指示され植えたについての記念碑かつては2本植えられてあったと言われているが現在は1本しか残っていない。 洗心功徳水の碑 - 画像 功山寺本堂前の井戸の隣にある石碑弥一建てたもので、「洗心功徳水と書かれてある。なお、この井戸が「洗心功徳水ということではなく功山寺山門左側水路が「洗心功徳水」であり、その付近には「父母滴水と書かれた石碑がある(画像)。弥一自身はこのについて「墓地に来る人が重たそうに持ってくるのに感心せず神戸湊川神社神主井戸掘っていることについて説明したとき、堤からを引くことをふと思いついた」と語っている。 七卿遺蹤(いしょう)碑 - 画像 功山寺本堂前にある記念碑で、七卿落ちした公卿一時的に功山寺滞在していたことについて書かれている大正元年1912年)に建てられたもので、題字碑文はともに毛利元雄が書いた碑文には七卿とあるものの、実際に功山寺滞在していたのは三条実美(さねとみ)、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世ひがしくぜ)通禧(みちとみ)、壬生(みぶ)基修(もとおさ)の五卿であり、そのころ澤宣嘉(のぶよし)は生野の変以来合流しておらず、錦小路頼徳(よりのり)はすでに病死していた。 八幡御旅所の碑 - 画像 忌宮神社御旅所建てられ石碑大正15年1926年)の整備同時に建設決まり昭和3年1928年11月忌宮神社宮司鳴瀬嘉貞によって建てられた。忌宮神社御旅所かつては長門三の宮であったともいわれている。 軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑 - 画像 長府野久留米町にある記念碑軍神とも呼ばれた広瀬武夫旅順口の戦い清に行く前に海軍少尉であった福田の墓を訪れたことから福田遺族らが建てたのである石碑昭和10年1935年)に建てられた。 尊攘堂並に萬骨建設由来の碑 - 画像 旧長門尊攘堂(元長府博物館)前にある石碑昭和8年1933年10月20日建てられた。碑文はこの長門尊攘堂設立した弥一によって書かれたものである徳永山の碑 - 画像 長府安養寺町の長府配水場入口付近に建てられ石碑。のちに長府町となった徳永安兵衛(1858-1923)が自分所有していた山を豊浦小学校寄付したことの記念として長府町長、原田政佳が大正5年1916年4月1日建てたのである昭和12年1937年以来徳永山(妙見山)の所有権下関市移り長府配水場ができた。 蠶種渡来之地の碑 - 画像 長府図書館横にある石碑題字大日本蚕糸会頭牧野忠篤碑文石碑設立当時山口県知事菊山嘉男により書かれた。長府仲哀天皇4年195年)に弓月君の父に当たる功満王によりの卵が日本初め伝えられた場所であるとされ、募金活動結果昭和8年1933年)に石碑設立された。 史蹟長門鑄錢所阯の碑 - 画像 覚苑寺階段左にある「史蹟長門鑄錢所阯」と書かれた史跡指定記念碑昭和8年1933年9月建てられた。

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