記念碑と記念物
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バージニア州センタービル周辺の一帯はモスビーがその前線背後の行動を行った場所であり、北部の新聞でも「モスビーの南部」と呼ばれている。戦後、「モスビー・レンジャーズ」同窓会がいつもその部隊に実際に仕えた者達の多くを何度も惹き付けるのはモスビー隊の名声である。 ウォーレントンにはモスビーの栄誉を称えて、ジョン・シングルトン・モスビー博物館が設立された。 北バージニアにはモスビー・レンジャーズに関わる行動や出来事に捧げられた35カ所の 記念碑や銘板がある。 バージニア州ワシントン・ダレス国際空港とウィンチェスターの間のアメリカ国道50号線の一部は、モスビー大佐に因んでジョン・モスビー・ハイウェイと名付けられた。 ある資料ではモスビーが「ソリッドサウス」という言葉を使い始めたということになっている。モスビーは1876年にニューヨークの「ヘラルド」に宛てた手紙でこの言葉を使い、共和党大統領候補ラザフォード・ヘイズを支持した。 ハーマン・メルヴィルの詩『アルディー方面の斥候』はある北軍旅団がモスビー隊に出会って感じた恐怖を語っている。 バージル・カーリントン・ジョーンズは『レンジャー・モスビー』(1944年)、『灰色の亡霊』と『反逆の襲撃者』(共に1956年)を出版した。また1950年代遅くにテレビ台本『レンジャー・モスビー』も書いた。 フェアファックス郡公立教育学区のモスビー・ウッズ小学校はモスビーに因んで名付けられた。 リー・マギッフィンは『南軍の鉄の斥候』(1993年)を書き、モスビー・レンジャーズに入隊した2人の10代少年の真の冒険を語った。 モスビーはサンフランシスコ時代にジョージ・パットンという名の少年に戦時の話を語った。この少年は後にアメリカ陸軍の将軍になった。 ラウドン郡高校はその運動競技部に「レイダーズ」という名前を使っている。これはモスビー・レンジャーズに掛けたものである。 フェアファックス市の小街区(モスビーの有名な襲撃があった場所)は「モスビー・ウッズ」と名付けられている。この街区にある市民プールは「モスビー・ウッズ・プール」と呼ばれ、その水泳チームは「レイダーズ」という名前を使っている。この街区の地域自治会とプールの双方は、後ろ足立った馬に跨り剣を抜いたモスビーの肖像をそのシンボルとして使っている。 バージニア州ワイズにはモスビー・レストランがある。 バージニア州リッチモンドの公共集合施設モスビー・コートはモスビーに因んで名付けられた。
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記念碑と記念物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:40 UTC 版)
テネシー州のセビアビルとセビア郡は彼の名誉を称えて命名され、同じくノックス郡のジョン・セビア・ハイウェイも同様だった。テネシー州メアリービルにあるジョン・セビア小学校とキングスポートにあるジョン・セビア中学校も彼に因んで名付けられた。テネシー川流域開発公社はセビアの名前を冠する石炭火力発電所を運転している。 ワシントンD.C.アメリカ合衆国議会議事堂の国立彫像ホール・コレクションには、テネシー州を代表する者としてセビアの彫像が置かれている。 ジョン・セビアの葬儀の記念碑はノックス郡庁舎東の芝地に立っており、そこはセビアの遺骸が1889年に移葬されたところである。 ノーフォーク・サザン鉄道はノックス郡北東部に操車場を運営している。そこはジョン・セビア操車場と呼ばれている。 セビアの記念碑はテネシー州ノックスビルに今も立っている。
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