西武・日本ハム時代
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プロ1年目の1989年シーズンのキャンプでは順調な仕上がりを見せ、バッテリーコーチの黒田正宏からは「前年のシーズンの新人王の森山良二並に活躍できる」と高い評価を受け、監督の森祇晶にも開幕ローテーション入りを期待されていた。また、投手コーチの八木沢荘六からはアマチュア時代に2番手だったため、肩を酷使していない点も評価されている。 オープン戦でも150km/h近い速球を武器に13回1/3で失点1と好投し、開幕から一軍入りを果たす。開幕後は4月29日の対ダイエー戦で初セーブを挙げるが、続いて先発した5月4日の対オリックス戦は10安打4失点と打ち込まれるなどプロの壁に当たった。後半戦はリリーフを務め、最終的に防御率4.33の成績に終わった。徐々に思い切りの良さが失われ、また変化球の制球が悪いことから投球が単調になったという。また、プリンスホテルの先輩である中島輝士に死球を与え、骨折させたことを気にし、内角が攻めにくくなっていた。 2年目の1990年シーズンは、キャンプでコーチの小山正明からパームボールを伝授され、遅い球種を得たことで投球の幅が大きく広がった。シーズン初先発となった5月12日の対ダイエー戦では2回途中でKOされたが、ブルペンでの内容は良かったことから5日後の5月17日の対ロッテ戦に再び先発。中日から移籍してきたベテラン大宮龍男の好リードもあり、初完封を挙げると、次の5月25日でも完投で勝利し、先発ローテーション入りを果たした。7月までに6勝を挙げる活躍で初のオールスターにも出場した。後半はやや伸び悩み8勝に終わったものの、チームの優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、西武の4連勝という圧勝で投手を6人しか起用しなかったこともあり、出番はなかった。 1991年シーズンは、右後背筋痛などに苦しみ、シーズン通算は7勝に終わったものの、チームは連覇を飾った。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは、第6戦で郭泰源の後を受け、4回を無失点で切り抜け、シリーズ初勝利を挙げた。 1992年シーズンは、6月28日の対オリックス戦では被安打1のみの準完全試合という好投を見せるなど先発の柱として働く一方、シーズン当初は鹿取義隆や潮崎と並び、抑え役もこなすなどの活躍ぶりを見せ、シーズン通算15勝3敗3S、防御率1.94の成績で優勝の原動力となり、沢村賞、MVPなど多くのタイトルを獲得した。WHIPは0.88を記録し、9月には4勝0敗で初の月間MVPも受賞した。この年躍進した要因として、前年のシーズンオフに伊東勤の勧めで始めたメンタルトレーニングやノーラン・ライアンのピッチャーズ・バイブルを読んだ事で精神的に成長したことが挙げられている。レギュラーシーズンの優勝決定戦で7点をもらいながら4回2/3で降板したため、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは初戦の先発を外された。石井自身は与四球の少なさからシリーズではリリーフ起用もあると考えていたというが、監督の森は7戦まで勝負がもつれることを想定し、最終戦の先発を石井にしたと語っており、そこから逆算して起用された第3戦の先発では、4番ハウエルから4打席4三振を奪うなど9奪三振、広沢克己のソロ本塁打による1失点、149球で完投勝利を挙げている。さらに第7戦では0-1で迎えた7回表に岡林洋一から自ら右中間に同点タイムリーを放ち、延長戦に持ち込み、10回155球を投げ、完投勝利でチームの日本一を果たし(更には胴上げ投手にもなった)、シリーズMVPにも選出された。 1993年シーズンは、シーズン当初より完全に先発投手として起用され、郭の故障や渡辺久信の不調がある中、工藤公康とともに安定した働きを見せる。このシーズンも4完封を含む12勝を挙げたが、その12勝目を挙げた後は4連敗とやや尻つぼみな形で終える。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第4戦で先発し、1失点ながら4回で降板し、敗戦投手となった。同年のシーズンオフには2,800万円増の1億1,000万円で契約を更改し、1億円プレイヤーとなっている。 1994年シーズンは、先発で調子が出なかったり勝ち星に恵まれない試合も多く、先発では4勝6敗防御率3.75だったがシーズン終盤には郭泰源とともにリリーフに回りチームの11連勝を支えた。9月は1勝0敗4S、防御率1.20と好投し、月間MVPに選ばれている。10月も1勝上乗せし、抑えでの成績は2勝0敗4S防御率1.06の成績を挙げ、この終盤の石井の活躍もあり、チームは5連覇を飾った。巨人との日本シリーズでも抑え役を務め、第3戦では敗戦投手となったものの第4戦では9回途中から延長12回までを投げ抜き、勝利投手となった。しかし、巨人に王手を掛けられた第6戦目では1点差に迫った8回裏にヘンリー・コトーに追加点となる痛恨のソロホームランを打たれ、そのままチームは日本一を逃した。 1995年シーズンは、再び先発ローテーションに戻り、4月に3完投を含む4勝を挙げ、防御率0.79で月間MVPを受賞するなど順調な滑り出しを見せた。しかし7月15日の対日本ハム戦の試合前の練習で左ふくらはぎ肉離れを起こし、同年のオールスターゲームへの出場を辞退し、代わりに郭泰源が出場している。この影響と腰痛のため、2ヶ月間戦列を離れ、シーズン通算では2年ぶりに二桁勝利を挙げるも規定投球回数には到達しなかった。同年はチームもリーグ優勝を逃し、同年のシーズンオフの更改で年俸は9,800万円(推定)と1億円を割り込んだ。 1996年シーズンは、5月2日の対日本ハム戦で降板した直後に右足に激痛を感じ、経過観察後の7月9日に軟骨除去手術を行ない同年はプロ初の未勝利に終わった。 1997年シーズンは、5月24日の対日本ハム戦で2年ぶりの勝利を挙げ、リーグ優勝にも貢献、ヤクルトとの日本シリーズでも先発登板をしたが、同年のシーズンオフの10月29日に西崎幸広との交換トレードを告げられ、奈良原浩と共に日本ハムファイターズへ移籍。 1999年シーズン、移籍して2年間一軍でも二軍でも思うような結果を残せず、同年の10月7日に日本ハムから戦力外通告を受ける。福岡ダイエーホークス、横浜ベイスターズ、阪神タイガースの入団テストを受けるも、いずれも不合格。ちなみに他のチームのテストとの日程の兼ね合いでテストを回避した千葉ロッテマリーンズはテストでベテラン選手(河野博文、秦真司、本西厚博)を大量採用する等皮肉な結果になった。(人間解析ドキュメント ZONEより) 「ZONE」では、日本ハムから戦力外通告を受けてから台湾に渡るまでが放送された。全盛期のイメージと現在とのギャップ、またテストを控えていたが怪我の影響もあり、走り込みなどの調整が上手く進めず、調整を手伝ってもらっていた捕手に八つ当たりをするなどこの時の苦悩が鮮明に描かれ、放送された。この放送回が反響を呼び以後プロ野球の戦力外選手の特集はTBSでのプロ野球オフシーズンの恒例番組になった。
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