補足:回顧6 ― 第三回シケリア旅行と哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 14:29 UTC 版)
「第七書簡」の記事における「補足:回顧6 ― 第三回シケリア旅行と哲学」の解説
第三回シケリア旅行(紀元前361年-紀元前360年)についての経緯の説明。 軟禁状態におかれた第二回シケリア旅行時は、シュラクサイとカルタゴとの戦争に乗じて、平和回復後の再訪を約束しつつ帰国の合意をとりつけた(紀元前366年)。 平和が回復して後、ディオニュシオス2世及び、追放中のディオンの強い要請で、ディオニュシオス2世教育のため、再びシュラクサイへと向かった(紀元前361年)が、話に聞いていたディオニュシオス2世の哲学熱が、虚栄心に基づく半可通なものだと到着早々感づいた。 (ここで、哲学が何であるか、また、本物の哲学者の労苦・忍従について、そして、ディオニュシオス2世の「半可通」ぶりについての文量を割いた説明が続く。) 「全体の課題、その性質、その過程の問題、それに伴う労苦」などについて指摘してあげると、愛知者の気質を持った人間であれば、各自の仕事に従事しながらも、哲学に向けて、気を引き締め、心がけを持って、張り切って一日一日執心・精進していくが、愛知者としての気質を持ち合わせない人間は、手に負えないと精を出さなくなったり、問題の事柄は全て教わったと自分に言い聞かせて終わらせてしまう。このように、これは労苦を忍べる人間か否かを見極める明確な検証法となる。 ディオニュシオス2世に対しても、こうしたことを概要だけ論じたが、彼はまさに自分は既に何不足なく理解しているといった顔をしていたし、後に聞いたところによると、彼はその事柄について自分独自の解説書であるかのように書物を著したらしい。しかし、哲学の知識を持っていると称し、それを書物に書いたり書こうとしている人々は間違っている。それは他の学問のように言葉で語り得るものではないし、教える者と教えられる者が生活を共にしながら、問題の事柄を取り上げて数多く話し合いを重ねていく内に、「飛び火によって点ぜられた燈火」のように、学ぶ者の魂の内に生じ、それ自身がそれ自体を養い育てていくような性質のものだから。 こうしたことをあえて著述しようとする人達を反駁できるように、真理にかなった論拠を提示しておく。 「在るもの」各々についての「知識」を手に入れる場合、依拠しなければならないものが3つあり、当の「知識」はその次の4番目に来る。そして、知られる側の「真実在」は5番目に来る。「示し言葉」(オノマ、名詞、名辞) 「定義」 「模造」 「知識」 例えば「円」に関しては、「エン」と発音した音声が、「示し言葉」(オノマ、名詞、名辞)であり、 「末端から中心までの距離が、どの方向においても等しいもの」といった、「示し言葉」(オノマ、名詞、名辞)に「述べ言葉」(レーマ、述語)が充てられたものが、「定義」であり、 「図に描かれたり消されたりする円」や「丸められてできたり壊されたりする球像」が、「模造」であり、 そうした音声や外的物体ではなく、魂の中にあるものとして、「知識」「知性」「真なる思いなし」がある(この中で真実在としての「円そのもの」に最も近いのは「知性」である) これは直線、色、良いもの、美しいもの、正しいもの、火や水といった人工的なもの自然的なもの含む物体全般、全ての生物、諸々の魂にそなわる性格、成すこと成されること全般についても当てはまる。つまり、先の4つを何とかして把握しない限りは、5番目の真実在を直接把握する知に、到達できない。 しかも、その4つを把握したとしても、「言葉」は、個々の事柄が「何であるか」ではなく、「どのようなものであるか」を示すに過ぎない。したがって、心ある人ならば、自分自身の「知性」によって把握されたものを、「言葉」という脆弱な器に、ましてや「書かれたもの」という取り換えも効かぬ状態に、あえて盛り込もうとはしない。 再度おさらいすると、上記の4つはどれも、5番目のものとは異なるものであり、脆弱なもの。そして、「何であるか」ではなく「どのようなものであるか」を、言葉なり具体例なりで差し出すものでしかない。したがって、それは反駁されやすく、論駁を得意とする者であれば、その4つの脆弱さに漬け込んで操縦できてしまうもの。したがって、信頼できる関係性の中で、上記の4つを突き合わせ、好意に満ちた偏見も腹蔵もない吟味・反駁・問答が、一段一段、行きつ戻りつ行われることではじめて、個々の問題についての思慮と知性的認識が、人間に許される限りの力をみなぎらせて輝き出すし、優れた素質のある人の持つ「知」を、同じく優れた素質のある人の魂の中に生みつけることが、かろうじて可能になる。それが哲学(愛知)の営みであり、およそ真面目な人ならば、真面目に探求されるべき真実在そのものについて、書物を著すことはないし、彼の特に真剣な関心事は、魂の中の最も美しい領域(知性)に置かれているものである。 したがって、ディオニュシオス2世がもしそのような書物を書いたのであれば、自身(プラトン)が述べた事柄の真意を全く学んでいなかったことになる。そして、それは恥ずべき虚栄心によって行われたものに違いない。 事実、彼は教えを受けるにふさわしい人ではなかったし、自分(プラトン)も先のように一度は説いて聞かせたが、二度とそうしたことを話すことはなかった。彼がもし哲学による思慮や徳への心がけ、自由な精神の育成に充分意義があると思っていたならば、それらの事柄の権威ある指導者である自分(プラトン)に対して、(下述するように)あのように軽々しく侮辱したりしなかっただろう。 (こうして、元の話に戻る。) 1ヶ月ほど経ち、早々に立ち去ろうとするも、ディオニュシオス2世に逗留を要求され、断ると、時間稼ぎのため、「追放中のディオンへの一部資産提供と、三者間で合意が成立すればディオンの帰国を許す」といった条件の下に、一年留まることを提案された。熟考の結果、その提案を受け入れ、ディオンへ内容確認の手紙を出すよう求めた。そうして秋になり船が出なくなった頃になって、ディオニュシオス2世は一方的にディオンの資産を勝手な条件で処分してしまった。 1年経ち、ディオニュシオス2世の傭兵減給処分に伴う暴動が発生。首謀者とされたヘラクレイデスは逃亡。ディオニュシオス2世は、自身(プラトン)にディオンの処分済み財産を渡さないよう敵対関係を作るために、自身(プラトン)を城外へ追い出し、ヘラクレイデス一味として冷遇。自身(プラトン)はアルキュタスらに窮状の手紙を送ると、彼らは三〇梃櫓艇を寄越してくれた。ディオニュシオス2世も出国に同意し、ようやく出国。 オリュンピアでディオンに会い、これまでの経緯を説明すると、ディオンはディオニュシオス2世への報復を呼びかけ始める。自身(プラトン)は賛成せず、双方の仲裁を試みるもどちらも耳を傾けなかった。こうして後の災禍に至った。 ディオンの願望は、節度と志あるものなら誰でも抱くものであり、国制確立、優れた法律制定を志したものであったが、その瀬戸際で頓挫してしまった。ディオンは自分をつまずかせた連中が卑劣漢であることは気付いていたが、その連中の無知・卑劣さ・貪欲さが、いかに甚だしいものであるかにまでは思いが及ばなかった。
※この「補足:回顧6 ― 第三回シケリア旅行と哲学」の解説は、「第七書簡」の解説の一部です。
「補足:回顧6 ― 第三回シケリア旅行と哲学」を含む「第七書簡」の記事については、「第七書簡」の概要を参照ください。
- 補足:回顧6 ― 第三回シケリア旅行と哲学のページへのリンク