萬屋錦之介と美空ひばり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)
「岡田茂 (東映)」の記事における「萬屋錦之介と美空ひばり」の解説
マキノ光雄とともに美空ひばりを引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった山口組の田岡一雄組長。田岡は「ひばりをタイトル・ロールの常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。中村錦之助や大川橋蔵は、なにしろ歌舞伎界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという。高岩淡の証言では、この時の料亭での話し合いには、ひばりとマキノはおらず、岡田と田岡、加藤喜美枝の三者による話し合いで、田岡、加藤が「ひばりの名前を出演者のトップに出せ」と言って聞かないので、「歌舞伎界の御曹司(中村錦之助)をトップにしないわけにはいかない。今回はひばりさんはトメ(出演者の最後)にしてください。ひばりさんをトップにするなら、相手役は里見浩太朗になりますよ」と、岡田がはっきり言い返したので、田岡が感心して「この人の言うとおりや」と逆に加藤を論したという。 田岡は岡田の度胸に惚れ込んで、以来、京都に立ち寄る度にスタッフ全員分のきんつばを土産に撮影所の陣中見舞いに訪れ、その労をねぎらうようになったという。田岡が京都のクラブ「ベラミ」で鳴海清に撃たれて負傷した1978年7月11日も、この日の前日焼けた京撮の火事見舞いの帰りだった。また後に東映がヤクザ映画に方向転換した際は、取材協力だけでなく、他の組とのトラブルに巻き込まれないように気を配ってくれたという。田岡は生前「岡ちゃん、あんたがヤクザなら、俺以上の親分になっとるわ」と感心していたという。 ひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると『岡田さん、岡田さん』と岡田を呼び『岡田さん以外とは話さない』と言っていたという。岡田は神戸芸能社との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは小林旭と結婚した1962年あたりから映画や浅草国際劇場での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、『江利チエミで大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです』と、新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた。『お嬢の座長公演のスタートは、女の花道』との演題で川口松太郎に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一か月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が『東宝から淡島千景を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする』というバーター案で、これにより沢島の貸し出しが決まった。沢島はこの後1967年、岡田が『もう時代劇はやらない』というので東映を辞め、東宝系の東京映画に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した。 当時22歳の萬屋錦之介と17歳の美空ひばりは、共演後にたちまち恋仲となったが、ふたり共に、これから上り詰めていこうという絶好調の大スター同士で周囲が猛反対した。それでも別れないふたりに田岡は困り果て、岡田に別れさせてくれと頼み、岡田がふたりを別々に呼んで諄々と諭して別れさせたという。 1954年、岡田が製作課長時代に東映に移籍してきた萬屋錦之介を唯一説得できる存在であった。錦之助は『笛吹童子』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、片岡千恵蔵や市川右太衛門の作品には若いファンがいない。だから錦之助や東千代之介の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、『ダメだ』と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると内田吐夢や伊藤大輔、田坂具隆ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は“巨匠離れ”ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は『そんなこと言ってると人気が落ちるぞ』とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって『岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ』と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、有馬稲子からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には『年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年俸が多いんだよ』と言うと、有馬は『そうよねー』と頷いていて、錦之助に『お前はそんな柄じゃない』などと説得したが聞き入れず。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し『宮本武蔵』五部作の完結編『宮本武蔵 巌流島の決斗』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は『このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ』との条件を出し錦之助を説得、1966年錦之助は東映を円満退社し『中村プロダクション』を設立したが1982年に倒産、岡田らの口利きで『ビッグヒル新社』という再建会社を設立したがこれも倒産した。錦之介は再び岡田のところへやってきて『柳生一族の陰謀』へ出演することとなる。
※この「萬屋錦之介と美空ひばり」の解説は、「岡田茂 (東映)」の解説の一部です。
「萬屋錦之介と美空ひばり」を含む「岡田茂 (東映)」の記事については、「岡田茂 (東映)」の概要を参照ください。
- 萬屋錦之介と美空ひばりのページへのリンク