荘川桜
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荘川桜(しょうかわざくら)は、岐阜県高山市荘川町中野(旧荘川村)の国道156号沿い、御母衣ダム湖岸に移植された樹齢450年と推定される2本のエドヒガンの古木。ごく淡いピンク色の花弁とごつごつした幹が特徴。樹高約20m、幹囲目通り約6m。岐阜県指定天然記念物。 御母衣ダム建設によってダム湖底に沈む運命にあった桜を1960年12月、ダムを建設した電源開発株式会社(Jパワー)の初代総裁高碕達之助の発案で、同社により移植され、保守されている。 移植後、桜のあった旧荘川村に因んで「荘川桜」と名づけられた。
- ^ 桜の名所、千鳥ケ淵緑道に「荘川桜2世」-高山市から移植 - 市ケ谷経済新聞 (2010年12月10日)
荘川桜
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御母衣ダムを語る上で欠かせないエピソードとして「荘川桜」の移植事業がある。 「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」解散式の後、高碕は水没予定地を元「死守会」書記長・若山芳枝らと共に歩いていた。光輪寺に差し掛かった時、樹齢400年以上に及ぶアズマヒガンザクラ(エドヒガン)に目が留まった。見事なその枝振りを見た高碕は同行していた電源開発社員にサクラの保護を要請。さらに当時サクラ研究の第1人者として「桜博士」とあだ名されていた笹部新太郎にサクラの移植を依頼した。湖底に沈む予定の光輪寺のサクラ(重量約35トン)と照蓮寺のサクラ(重量約38トン)を200メートル上の山腹に引き上げ、約1,500メートル移動させるという前例がなく途方もない依頼に当初笹部は断ろうとしたが、高碕の熱意に折れてこの事業の総指揮を執ることとなった。 1960年(昭和35年)、高碕と笹部は愛知県豊橋市の造園業者・庭正造園の丹羽政光の助力を得て本格的な移植作業に取り掛かった。だが移植方法を巡って笹部と丹羽の意見が対立した。サクラは外傷に弱い樹木であり、少々の枝折れ等で簡単に立ち枯れするようなデリケートな植物であった。このためサクラに精通する笹部は枝も根も伐採せずに移植することを主張したが、丹羽はあまりにも巨木であるため伐採なしの移動は不可能として真っ向から対立した。その後丹羽は根などを計測するが、多くの根が張っていることと若い根が予想以上に多かったことから職人としての長年の経験と勘に基づき、笹部が不在の際に独断で枝・根の伐採を行い移植を開始した。移植作業はダム本体工事を担当する間組も共同で実施、ブルドーザーやクレーンなど大型機械を駆使して慎重に吊り上げ、国道156号沿いの湖岸予定地に1960年12月24日に移植が完了した。 根も枝も幹も伐採され無残な姿を晒した2本の老木を目の当たりにした笹部は、あまりのことに愕然としたといわれる。総責任者であった笹部には水没予定地の住民や植物学者、果てはマスコミに至るまで全国各地から非難の声が寄せられたという。笹部も後日「移植に失敗したら、桜研究から完全に身を引く覚悟であった」と回想した。だが、翌1961年の春、サクラは移植場所に根付く「活着」に成功し蕾を付けた。明くる1962年(昭和37年)には移植された老木の傍に水没記念碑が建立され、500名の旧住民と高碕・笹部が集まった。この時高碕は「計画発表以来移転を余儀なくされる住民の皆様の幸せを願いながらダム事業を進めてきました。皆様の犠牲は国づくりに大きく役立っております」という旨の挨拶を行い、途中感極まって涙したと笹部は後に記している。 さらに移植から10年後の1970年(昭和45年)春、2本の老木は満開の花を咲かせ、11年に及ぶ荘川桜の移植事業は成功に終わった。高碕と丹羽はすでに亡くなっていたが、笹部や水没地の元住民は桜の移植場所に集合し、事業の成功を喜び合った。その後も水没地の元住民が毎年春に集まり、高度経済成長の礎として湖底に没した故郷をしのんだ。この荘川桜移植事業は世界でも前例がないものであり、「世界植物史上の奇跡」とまでいわれた。 サクラは建設当時副総裁として補償交渉に携わった第4代総裁の藤井崇治によって「荘川桜」と命名された。これには1964年(昭和39年)、笹部が受け取った高碕からの手紙の中に「桜の名前を取り決めておきたい」という文言があって、それが契機となっている。この手紙が高碕の絶筆となっており、病床にあっても桜を思う高碕の気持ちを窺い知ることができる。1966年(昭和41年)12月13日には岐阜県の天然記念物に指定されている。荘川桜は現在でも電源開発が保守・管理を直轄で実施しており、実際の手入れは現在も一貫して庭正造園が手掛けている。荘川桜はその後移植前よりもさらに枝葉を伸ばしているが、「死守会」書記長であった若山が荘川桜のすぐ傍らに二世を植樹、さらに全国各地にも荘川桜二世が移植され花を咲かせている。例年4月下旬からゴールデンウィーク頃が見頃であり、春の飛騨高山祭りと共に飛騨地方に春を告げる風物詩にもなっている。水上勉はこの荘川桜の顛末を『桜守』という小説に著した。 ダム付近を通る国道156号で運行されていた国鉄バス名金急行線の車掌であった佐藤良二は、丹羽から荘川桜の移植前から活着後までの全てを写真で記録することを依頼された。開花した荘川桜に感動した佐藤は「太平洋と日本海をサクラで結ぼう」運動を行った。このエピソードは1994年(平成6年)には映画化、2009年(平成21年)には読売テレビ放送開局50周年記念としてテレビドラマ化もされた。この運動によって桜が植えられた街道沿いを走る「さくら道国際ネイチャーラン」などのスポーツ行事が行われている。
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