荘川桜とは? わかりやすく解説

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荘川桜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/20 07:57 UTC 版)

荘川桜(しょうかわざくら)は、岐阜県高山市荘川町中野(旧荘川村)の国道156号沿い、御母衣ダム湖岸に移植された樹齢450年と推定される2本のエドヒガンの古木。ごく淡いピンク色の花弁とごつごつした幹が特徴。樹高約20m、幹囲目通り約6m。岐阜県指定天然記念物御母衣ダム建設によってダム湖底に沈む運命にあった桜を1960年12月、ダムを建設した電源開発株式会社(Jパワー)の初代総裁高碕達之助の発案で、同社により移植され、保守されている。 移植後、桜のあった旧荘川村に因んで「荘川桜」と名づけられた。




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荘川桜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 13:59 UTC 版)

御母衣ダム」の記事における「荘川桜」の解説

御母衣ダムを語る上で欠かせないエピソードとして「荘川桜」の移植事業がある。 「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」解散式の後、高碕は水没予定地を元「死守会」書記長若山と共に歩いていた。光輪寺差し掛かった時、樹齢400年以上に及ぶアズマヒガンザクラエドヒガン)に目が留まった。見事なその枝振り見た高碕は同行していた電開発社員サクラ保護要請。さらに当時サクラ研究の第1人者として「桜博士」とあだ名されていた笹部新太郎サクラ移植依頼した湖底に沈む予定光輪寺サクラ重量35トン)と照蓮寺サクラ重量38トン)を200メートル上の山腹に引き上げ、約1,500メートル移動させるという前例がなく途方もない依頼当初笹部断ろうとしたが、高碕の熱意折れてこの事業総指揮執ることとなった1960年昭和35年)、高碕と笹部愛知県豊橋市造園業者・庭正造園丹羽政光の助力得て本格的な移植作業に取り掛かった。だが移植方法巡って笹部丹羽意見対立したサクラ外傷に弱い樹木であり、少々枝折れ等で簡単に立ち枯れするようなデリケートな植物であったこのためサクラ精通する笹部も根も伐採せずに移植することを主張したが、丹羽あまりにも巨木であるため伐採なしの移動不可能として真っ向から対立したその後丹羽は根などを計測するが、多くの根が張っていることと若い根が予想以上に多かったことから職人としての長年経験と勘に基づき笹部不在の際に独断枝・根伐採行い移植開始した移植作業はダム本体工事担当する間組共同実施ブルドーザークレーンなど大型機械駆使して慎重に吊り上げ国道156号沿いの湖岸予定地に1960年12月24日移植完了した。 根もも幹も伐採され無残な姿を晒した2本の老木目の当たりにした笹部は、あまりのことに愕然としたといわれる。総責任者であった笹部には水没予定地の住民植物学者果てはマスコミに至るまで全国各地から非難の声が寄せられたという。笹部後日移植失敗したら、研究から完全に身を引く覚悟であった」と回想した。だが、翌1961年の春、サクラ移植場所に根付く活着」に成功し付けた明くる1962年昭和37年)には移植され老木の傍に水没記念碑建立され500名の旧住民と高碕・笹部集まった。この時高碕は「計画発表以来移転余儀なくされる住民皆様幸せ願いながらダム事業進めてきました皆様犠牲は国づくりに大きく役立っております」という旨の挨拶行い途中感極まって涙した笹部は後に記している。 さらに移植から10年後の1970年昭和45年)春、2本の老木満開の花を咲かせ、11年に及ぶ荘川桜の移植事業成功終わった。高碕と丹羽はすでに亡くなっていたが、笹部水没地の元住民移植場所に集合し事業の成功喜び合ったその後水没地の元住民毎年春に集まり高度経済成長の礎として湖底没した故郷しのんだ。この荘川桜移植事業世界で前例がないものであり、「世界植物史上奇跡」とまでいわれた。 サクラ建設当時副総裁として補償交渉携わった4代総裁藤井崇治によって「荘川桜」と命名された。これには1964年昭和39年)、笹部受け取った高碕からの手紙の中にの名前を取り決めておきたい」という文言があって、それが契機となっている。この手紙が高碕の絶筆となっており、病床にあってを思う高碕の気持ち窺い知ることができる。1966年昭和41年12月13日には岐阜県天然記念物指定されている。荘川桜は現在でも電源開発保守管理直轄実施しており、実際の手入れは現在も一貫して庭正造園手掛けている。荘川桜はその後移植前よりもさらに枝葉伸ばしているが、「死守会」書記長であった若山が荘川桜のすぐ傍ら二世植樹、さらに全国各地にも荘川桜二世移植され花を咲かせている。例年4月下旬からゴールデンウィーク頃が見頃であり、春の飛騨高山祭りと共に飛騨地方春を告げる風物詩にもなっている。水上勉はこの荘川桜の顛末を『桜守』という小説著したダム付近を通る国道156号運行されていた国鉄バス名金急行線車掌であった佐藤良二は、丹羽から荘川桜の移植前から活着後までの全て写真記録することを依頼された。開花した荘川桜に感動した佐藤は「太平洋日本海サクラ結ぼう運動行った。このエピソード1994年平成6年)には映画化2009年平成21年)には読売テレビ放送開局50周年記念としてテレビドラマ化もされた。この運動によって植えられ街道沿いを走る「さくら道国際ネイチャーラン」などのスポーツ行事が行われている。

※この「荘川桜」の解説は、「御母衣ダム」の解説の一部です。
「荘川桜」を含む「御母衣ダム」の記事については、「御母衣ダム」の概要を参照ください。

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