米国ラジウム社(United States Radium Corporation)
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「ラジウム・ガールズ」の記事における「米国ラジウム社(United States Radium Corporation)」の解説
詳細は「米国ラジウム会社(英語版)」を参照 1917年から1926年まで、米国ラジウム社はカルノー石からラジウムを抽出・精製して夜光塗料を製造する事業を行っており、塗料は「アンダーク」("Undark")というブランド名で販売された。原料となる鉱石はコロラド州のパラドックス・バレーやユタ州の他の「アンダーク鉱山」("Undark mines")から採掘されていた。民間軍事会社である米国ラジウム社は、軍用の夜光時計の主要な納入業者だった。ニュージャージー州オレンジにあった同社の工場では、主に女性を中心とした100人以上の労働者を雇用し、ラジウム塗料の危険性を教えないまま塗装作業に従事させていた。 米国ラジウム社はラジウムを取り扱う作業を含む仕事のために約70人の女性を雇ったが、その間も経営者と科学者はラジウムの危険性を認識しており、慎重に被曝を避けていた。ラジウムを取り扱う際、科学者は放射線を遮るための鉛のスクリーン、マスク、トングを使用した。米国ラジウム社は医学界に、ラジウムの損傷作用について述べられた文献を配布していた。このような知識があったにもかかわらず、同時期にラジウムを扱う様々な会社が「少量であればラジウムは健康に良い」として、ラジウムを含む飲料水製造器や、化粧品やバター、牛乳、歯磨き粉等が健康食品として広く市販されているような状況も背景にあり、女工達が扱う程度の塗料であればこれらの「健康食品」同様に健康被害を及ぼさないであろうと安直に思い込まれていた。第一次世界大戦でアメリカは夜光塗料が塗布された軍用時計を大量に製造して軍用機の操縦士や軍用車両の運転手達に支給しており、ラジウムは大戦の戦勝に貢献した夢の物質と、当時は本気で信じられていたのである。第一次大戦に父や兄弟が出征した家庭では、銃後のアメリカ社会に少しでも貢献したいという意志も後押しして多くの女性がラジウム産業の求人に応募した。米国ラジウム社の賃金は当時の一般的な工場労働で得られる平均賃金の3倍以上であり、何よりも労働後に自身の身体や衣服が付着した塗料によって暗闇で明るく光る事もあって若い女性の間では人気の就業先ともなっていた。 結局、被爆による死亡者は1922年から1925年まで発生し、その中には同社の科学者のリーダーであるエドウィン E. レマン(Edwin E. Leman)や多数の女性工員も含まれた。彼らの似通った死亡状況を知り、ニュージャージー州ニューアークの郡内科医だったハリソン・マートランド(Harrison Martland)は調査を始めた。 米国ラジウム社では、工員は塗料を小さなるつぼで混ぜ、ラクダの毛のブラシを使って時計の文字盤 (時計)(英語版)に塗った。1日に250枚の文字盤に塗料を塗った場合、その賃金は1枚の文字盤につき1ペニー半であった(2020年時点の$0.293と同等)。ブラシは数回使うと形が崩れるので、米国ラジウム社の監督者は、工員に「リップ、ディップ、ペイント」("lip, dip, paint")を奨励した。すなわち、唇や舌を使ってブラシを整え、塗料をつけ、再び塗るように勧めたのである。工員にはラジウムの本当の性質は知らされておらず、彼女たちは塗料をたわむれに爪や歯、顔に塗ることもあった。 多くの工員が病気になったが、そのうちの何人が放射線被曝によって死亡したかはわかっていない。少なくとも、1922年の時点で最初の犠牲者が発生し、後述の訴訟の原告となった者達全員が死亡したのは確かである。後年、『The Radium Girls: The Dark Story Of America's Shining Women』を上梓し、ラジウム・ガールズの実態について調査を行ったケイト・ムーアによると、犠牲者の総数は少なくとも112人以上、犠牲者のうち最も若年の少女は労働従事時点の年齢が11歳であったとしている。 被曝した女性の多くは貧血、骨折、ラジウム顎(英語版)(あごの壊死)、骨肉腫などを発症した。また、検査の際に使用されたX線撮影機によって工員の病状はさらに悪化したと考えられ、少なくとも一つの検査は、会社側によるデマの発信活動の一環として行われたことが判明している。米国ラジウム社やその他の文字盤製造会社は、労働者がラジウムによって被曝したとは認めなかった。これらの会社からの要求を受け、医師や歯科医師、調査者はデータを非公開にした。また、労働者たちの死亡は、当時蔓延していた梅毒など別の原因によるものとされた。ラジウムは人体の中ではカルシウムと類似した振る舞いを行い、骨に沈着する性質があった。この作用により被曝の開始から発病まで平均して5年前後掛かる傾向があった事も、因果関係の立証を一層困難なものとした。 1928年11月、ラジウム文字盤塗装の発明者であるサビン・アーノルド・フォン・ソチョッキー博士(Dr. Sabin Arnold von Sochocky)が放射線障害のため死亡し、ラジウム塗料による16人目の死亡者となった。彼はあごではなく両手に障害を生じたが、彼の死亡状況は、裁判における労働者たちの立場を有利にした。
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