立法的解釈か学理解釈か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 02:16 UTC 版)
立法的解釈を重視するか、後述する学理的解釈に多くを委ねるべきかは、法律における根本問題である。 なぜなら、立法的解釈は、法源の明確さ故に法的安定性の確保に資する一方、過度にこれを多用すると裁判実務における柔軟な解釈・運用が阻害されて具体的妥当性を害し、また法令が複雑化し、一般国民はおろか法律の専門家にさえ理解困難なものになって、制定法と一般国民の法意識との乖離を招き、実務も混乱することによって、かえって法的安定性を害することになるからである。ドイツの法典論争、日本の民法典論争において、自然法論者のティボー、梅謙次郎らが法的安定性の確保のために早急な統一的成文法典の制定を主張したのに対し、サヴィニーや穂積陳重、富井政章らが法的安定の目的そのものには同調しつつも、法解釈を支える学問の充実が不可欠であり、拙速な立法は無用に社会を混乱させるとして反対したのはこのような理由があった。現に、例えば、ケマル主義体制下における近代トルコにおいては、旧弊を一掃して社会を変革する目的により、十分な社会的・学問的土壌の無いまま、スイス民法を直輸入する等して極めて短期間に近代的な諸法典を成立させた結果、従前のイスラム系社会との軋轢を招いたのみならず、優秀な裁判官の育成・確保が困難となって、一時的に控訴審の廃止に追い込まれるまでに至っている。反面、法律が社会を積極的に変革・改善するのに指導的な役割を果たす作用もまた否定できないのであるから、日本においては短期間の立法作業で、学問的土壌も未熟であったにもかかわらず、近代諸法典への移行が大きな混乱もなくスムーズに進んだことから、この限りにおいて歴史法学の主張は正しくないといわれることもある。 特に、フランス民法典や日本の旧民法、会社法については、立法的解釈への過度の傾斜であるとの批判が強い。立法的解釈による無用かつ不正確な定義は学問を拘束し、その発展の妨げとなるおそれがあるとも指摘されている。 これに対し、フランス民法典及び日本の旧民法に好意的な立場からは、国語的な文理解釈と専門的な学理解釈(特に論理解釈)の結果の乖離が進行すると、一般国民にとっては理解が困難となり法治主義の観点から問題であるから、解釈に疑義のある場合は、積極的な立法的解釈によって解決すべきと主張される。実際にこのような細目網羅型かつ一般人向けの平易な教科書型法典を採るものも少なくなく、その典型として前述のプロイセン一般ラント法があるが、法典の膨張と長文化は避けられず、民法だけで一万七千条以上にも及ぶ膨大でかえってわかりづらく扱いづらいものとなってしまっていた。 そこで、いかに成文法が改正されても、その度に新しい判例法と慣習法が出現し、これらを無視することはできないのだから、むしろ成文法はより簡明にして理解を容易にしつつ、条文解釈の枠内での広範な学理的解釈の発達に委ねるべきであり、それが法治主義の観点からも望ましいとの見解も主張されている。社会事情の変動に立法的解釈・文理解釈の偏重を合わせようとすれば朝令暮改の弊害を招き、国民の意識と法律との乖離を招いて、かえって法的安定性が害されてしまうと考えられるからである。日本の民法典はこの立場に立って起草されたものである。大陸法の中でも特に条文数が少ないのは、判例国である英米法学からの影響の可能性が指摘されている。 もっとも、フランス民法典が全面的にプロイセン一般ラント法におけるような極度の立法的解釈万能主義を採用していたわけではなく、激しい論争の末、どれほど公平に基づく主張であっても、法に明文の無い限りこれを却下すべきとする見解を退けて、裁判官は法の不明もしくは不存在の場合にも自らの正義・公平の観念によって裁判を下すべきであるとして、以下のような規定が制定されていたことに注意しなければならないと指摘されている。 裁判官が法規の沈黙、又は不備を口実として裁判を為すことを拒むときは、裁判拒絶の罪ありとして訴追せらるべし。 — フランス民法典第4条 この規定は後にフランスで自由法説が興隆する伏線となるのである。 また、商法・手続法などの専門的・技術的な法律については、ある程度までは迅速・複雑な立法的解釈を重視せざるをえない面もあることが指摘されている。特に税法の場合、前述のように租税法律主義が妥当するため、その規定は他の法律に比べ著しく詳細かつ具体的なものとならざるをえない。そこで、現行日本民法典の根本的改修を主張する論者は、スイス債務法典に代表される民法と商法の一体化の流れを日本民法に取り入れるべきことをその理由の一つに挙げている。 一方、罪刑法定主義の支配する刑法分野においては、形式的な条文からは当該行為が処罰できるかどうか曖昧であるが、社会的には処罰の必要性があるという場合に、迂遠な立法的解釈を待つことなく柔軟な学理的解釈に委ねるか、それとも人権保障の観点から、処罰の必要性という具体的妥当性をある程度犠牲にしてでも、立法的解釈によって解決すべきかという形で古くから議論されている。 要するに、これは三権分立において立法府を信頼するか、司法を信頼すべきかの問題であり、換言すれば、客観的な制定法に対して、どの程度まで裁判官は学理的解釈による主観的判断を踏み込ませるべきなのかという問題なのであるから、憲法分野においては司法積極主義と司法消極主義の問題であると共に、大陸法と英米法、あるいは自然法学と歴史法学の対立が形を変えて現れたものとみることができるのである(→#条理)。
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