真岡・大泊上陸作戦
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「樺太の戦い (1945年)」の記事における「真岡・大泊上陸作戦」の解説
ソ連軍は、第3期作戦の補助作戦として真岡上陸作戦を計画していたが、国境方面の戦況などにかんがみ、8月15日に真岡上陸作戦の発動準備を下令した。その目的は、日本側の本土への引き揚げ阻止と、北海道侵攻のための拠点の早期確保にあった。上陸部隊の第113狙撃旅団主力(約2,600人)と海軍混成歩兵大隊(820人)は、18日に間宮海峡付近のポストヴァヤ湾とワニノ湾で輸送船5隻と掃海艇4隻、警備艇9隻に乗船し、翌19日朝に出航した。上陸部隊指揮官は第113狙撃旅団長のI・Z・ザハーロフ大佐、船団指揮官はA・I・レオーノフ海軍大佐だった。 日本側は、真岡港を本土への引き揚げ乗船地として使用中で、町は地元住民と避難民1万5000人以上であふれていた。守備隊としては歩兵第25連隊主力が置かれていたが、すでに軍旗の焼却や約1割を占める古年次兵の除隊、特設警備隊の防衛召集解除などを完了していた。歩兵第25連隊のうち第1大隊だけが海岸正面に陣地構築中だったが、8月16日に海岸の陣地や市街地から兵を引き上げ、1-2km内陸の荒貝沢の谷地にテントを張って野営して待機した。市街地付近に残されたのは、監視哨の機関銃・連隊砲各1個分隊と戦力のない陸軍船舶兵程度であった。 8月20日の日本側時間午前6時頃(ソ連側記録によると午前7時半頃)、警備艦と敷設艦各1隻に護衛されたソ連軍船団が、霧の真岡に上陸を開始した。ソ連軍は浅瀬に座礁した魚雷艇が日本軍の先制射撃を受けたため艦砲射撃で応戦したと記録しているのに対し、日本側は舟艇の座礁を目撃したが射撃は加えていないと記録している。ソ連軍は艦砲射撃に援護されて侵攻、ソ連側記録で12時頃までに港湾地区を、14時頃までに市街地を占領した。港内にあった貨物船「交通丸」と機帆船・漁船は、拿捕されるか撃沈された。日本側記録によると、日本軍は一切の発砲を禁じて内陸の高地の影に後退し、豊原方面へと民間人を誘導するとともに軍用物資を放出して配布した。ソ連側記録は、市街戦で建物や地下室に立て篭もった日本軍を掃討し、日本兵300名以上を死傷させ、600名以上を捕虜にしたとするが、日本側記録によると真岡市街には防御陣地はなく、日本軍も応戦していない。攻撃目標にされたのは民間人、特に軍服類似の国民服を着用していた者だった。占領当日、ソ連軍は街の要人らを呼び出し海岸に連行し銃殺(町長は重傷で生存)、日本軍が派遣した軍使の第1大隊副官らも拘束のうえ射殺された。電信局の女性職員が集団自決した真岡郵便電信局事件も起きている。ソ連側は、自軍の損害として、陸軍兵60人と海軍歩兵17人が死傷したとしている。 ソ連軍の行動を見た日本軍は、衛戍勤務令12条と13条(警察行動に類する規定)に基づいて限定的な武器使用許可を行い、8月20日15時30分頃に山中でソ連軍と小競り合いを生じた。8月21日になって豊原へ向けて進撃を始めたソ連軍は、日本の歩兵第25連隊第1大隊を攻撃し、日本側も自衛のため応戦した。次第に浸透された日本側は同日夜に逢坂へ撤退し、新たに第3大隊を熊笹峠と宝台ループ線へ布陣させた。ソ連側は逢坂集落など各地に空襲と艦砲射撃を行いながら進撃し、日本側は豊原防衛のために熊笹峠などで8月22日まで遅滞戦術をとった。日本側は衛生兵までが白兵戦を行った。豊原も8月22日には空襲を受け、避難民が集結していた駅前広場周辺が焼夷弾などを浴びた。豊原駅には白旗が掲げられ、広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も空襲が繰り返されて100名以上が死亡、400戸が焼失した。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたがソビエト軍は猛爆撃を行った。 8月22日夕刻に、第88師団司令部からの降伏命令が歩兵第25連隊に届き、ソ連側と交渉の後に8月23日までに武装解除が終わった。この交渉の際にも軍使一行が銃撃を受けて死傷している。その後の豊原占領時にも、海軍武官府から派遣された軍使の主計大尉が、「交渉中に刀で斬りかかった」として射殺されている。真岡の戦いでの日本軍の損害は、停戦直後の調査では第88師団所属の137人戦死とされたが、その後の調査で総数300人を超えると推定されている。 8月23日早朝、ソ連軍は真岡から海軍歩兵混成旅団(3個大隊)を出航させ、翌日に本斗を経由して、8月25日に大泊へ上陸した。日本軍の抵抗はなく、大泊の海軍基地などが占領された。このほか真岡北方の小能登呂飛行場は、輸送機で強行着陸したソ連海軍空挺部隊によって、8月22日に占領されている。
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