病院船時代とは? わかりやすく解説

病院船時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 05:14 UTC 版)

高砂丸」の記事における「病院船時代」の解説

高砂丸」は昭和16年11月12日付で日本海軍に徴傭され、12月1日付で特設病院船として入籍する12月20日まで三菱重工業神戸造船所特設病院船としての艤装工事行った後、連合艦隊主力部隊配属される12月23日連合国側に「朝日丸」(日本郵船、9,326トン)および「氷川丸」(日本郵船11,622トンとともに病院船として船名通告され南方方面出動する蘭印作戦進捗に伴い朝日丸では負傷者がさばききれない見込まれたため、1942年昭和17年1月末から「朝日丸」に代わってダバオ方面行動3月からはマカッサルなどセレベス島方面行動するが、4月26日最初災難見舞われた。「高砂丸」はこの日の未明1時38分頃、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯0319東経12727分 / 南緯3.317度 東経127.450度 / -3.317; 127.450のアンボン近海航行中アメリカ潜水艦ピカーレル」に発見された。「ピカーレル」は商船の煙を発見して戦闘配置令した4月26日入ってすぐ、「ピカーレル」は艦首発射管から4本、艦尾発射管から1本の魚雷発射し、1本が命中した。「ピカーレル」は浮上して目標追跡し、さらに魚雷を2本発射したものの命中しなかった。そのうち金剛丸客船思しき艦船高速で「ピカーレル」の方に向かってくる気配があったので、「ピカーレル」はスコールまぎれて戦場離脱した。「ピカーレル」が「金剛丸客船」と判断した艦船こそ他ならぬ高砂丸」であり、「高砂丸」は魚雷命中により舵と舵取機械および船体一部損傷した。 この攻撃対す抗議1943年昭和18年12月になってようやく行われたが、連合国側から昭和18年5月14日の「伊号第百七十七潜水艦」によるオーストラリア病院船セントー英語版)」(3,222トン)の撃沈事件持ち出される一幕もあった。また、アメリカ政府は「この攻撃アメリカ側高砂丸病院船として通告される前の件」とする。ともあれ、「高砂丸」は修理のため後方に下がる事となった。 修理後ソロモン諸島方面進出ショートランド停泊中の11月1日爆撃を受け、至近弾により損傷した修繕後は再びトラック諸島ラバウルなど南東方面と、別府横須賀などとの間での患者輸送診療従事するが、直接現地赴いて患者収容したほか、「氷川丸」や「天応丸」(6,076トン)から患者託され後送するパターンもあった。1944年昭和19年1月以降第十八次航海南西方面行動しマニラダバオアンボンクパンスラバヤなどに点在する海軍病院艦船陸上部隊巡って3月12日佐世保寄港の後、3月14日に呉に帰投次の航海ではトラックメレヨン島およびパラオ方面を巡るが、「高砂丸」はこの航海二度目災難遭遇したパラオは「高砂丸」が向かう少し前の3月30日から3月31日にかけてアメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の攻撃受けたが(パラオ大空襲)、その際艦載機一部環礁内および環礁に至る水道機雷投下して敷設した環礁南方水道比較的安全と見られており、「高砂丸」も環礁に入る際は南方水道から入るよう指示受けていた。4月9日朝8時10分、「高砂丸」はヨオ水道通過中に2発の磁気機雷触雷し、翌4月10日までには後甲板まで浸水して沈没危機陥った収容患者近在小島避難させ、陸上部隊応援得た懸命排水作業結果沈没免れ4月25日機械室排水終わったのに続き4月30日全ての排水作業終了して応急修理取り掛かった5月21日には全ての応急修理完了し患者および南洋庁関連引揚者乗せて5月26日パラオ出港6月3日に呉に帰投し、三菱重工業神戸造船所回航されて本格的な修理が行われた。修理9月16日までに終わり9月16日に呉を出港してマニラに向かう。しかし、マニラ入港直前9月21日午後にアメリカ第38任務部隊機の機銃掃射を受け、窓ガラス破損するなどの被害受けた。 また同じ9月21日午前中には、海中からはアメリカ潜水艦ハッド」が「高砂丸」を目撃しており、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将長男ハッド艦長チェスター・W・ニミッツ・ジュニア少佐は、目撃した高砂丸」のことを「美し病院船」と戦時日誌記したハッド同日夜に測量艦勝力」を撃沈しているが、「勝力」は「ハッド」に撃沈される前に高砂丸」と同様に機銃掃射受けて負傷者出しそのうち重傷者2名を行き逢った「高砂丸」に移送している。9月24日には北緯12度11東経11948分 / 北緯12.183度 東経119.800度 / 12.183; 119.800の地点未知暗礁触れて右舷側の推進軸船底破損した10月7日に呉に帰投の後、再び三菱重工業神戸造船所修理が行われた。この頃、「高砂丸」の船底300トン容量重油タンク設置される工事が行われようとしていたが、「良識派意見」が通って工事直前中止になった1945年昭和20年)に入っても「高砂丸」は精力的に行動続けた2月台湾方面行動したが、2月28日午後に北緯2317東経11728分 / 北緯23.283度 東経117.467度 / 23.283; 117.467の地点で3機のB-25機銃掃射を受け、船体若干被弾があった。3月19日には呉軍港空襲とばっちり至近弾3発を受け、4月26日にも別府出港直後瀬戸内海触雷したが、いずれも大事には至らなかった。極めつけ出来事7月起こった7月3日ウェーク島向かっていた「高砂丸」はアメリカ駆逐艦マリー」 (USS Murray, DD-576) の臨検受けた上空では1機のB-24が監視飛行行っており、4時間半もの臨検により食糧チェック入ったが、これは大きな意味を持っていた。主戦場から置き去りにされたウェーク島では食糧極端に欠乏し、在ウェーク島陸海軍部隊将兵はほぼ全員栄養失調状態に陥っていたが、潜水艦による補給では十分に食糧賄う事ができなかった。「高砂丸」の搭載していた食糧は、アメリカ軍側に「在ウェーク島陸海軍部隊将兵に渡す食糧」として見られたのか「高砂丸国際法違反の「病院船による食糧輸送」を企図している」と疑いかけられ、翌7月4日ウェーク島入港して患者の収容行った際にも、上空では2機のアメリカ軍機が監視飛行行い収容時間自体6時間に限定され帰途にも再び駆逐艦臨検受けた結果的に往路臨検受けたことにより患者収容しか行わなかった事もあってか、「シロ判定となって咎めはなかった。

※この「病院船時代」の解説は、「高砂丸」の解説の一部です。
「病院船時代」を含む「高砂丸」の記事については、「高砂丸」の概要を参照ください。

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