病院船朝日丸
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1937年7月、日中戦争勃発。その約1ヵ月後の8月17日、朝日丸は海軍に徴用されて呉海軍工廠に於いて病院船に改装された。乙一等客室は手術室に宛がわれた。改装はすぐに終わり、一週間後の8月25日には病院船としての初の航海で呉淞に向かった。朝日丸は呉淞で陸軍の傷病兵を収容し、8月30日に呉に帰投。病院船としての初の航海を終えた、以後も日本本土と中支方面を往復した。ところが、1938年3月26日朝、大事故が発生する。この日、朝日丸は定期検査及び設備改善のため三菱重工業神戸造船所にて係留中、突然船体が左舷に傾斜。岸壁にもたれかかった形となって座礁し、遊歩甲板の左舷船室まで水没してしまった。原因は検査のためにバラストを移動させたため重心が変わってしまい、バランスを崩してしまったのが原因とも言われたが、復原力の悪い朝日丸に重い医療器具を多数積み込んだことが条件を悪くしたという説明もある。事故に関しては査問委員会が開かれた。同年6月初旬には修理が終わり、再び病院船として中支方面などへ航海した。1939年、近海郵船は日本郵船に合併され朝日丸も移籍。1940年、朝日丸は三菱重工横浜船渠にて二番煙突を撤去。もともと二番煙突はダミーファンネルだったが、「復原力改善のためには撤去するのがよい」という意見によるものだった。1941年12月2日、朝日丸は別府を出港しパラオに向かった。太平洋戦争勃発時にはパラオに向けて航海中で、ほどなくパラオに到着した。 開戦後の同年12月23日、朝日丸は連合国に対し病院船として氷川丸(11,622トン)、高砂丸(大阪商船、9,315トン)とともに船名や要目、姿形などが通知された。パラオで治療や補給にあたった後ダバオに進出し、同様に治療と補給にあたった。しかし、患者が増加して対応しきれなくなることが予想されたため、応援として高砂丸がダバオに回航されて治療と補給にあたることとなり、朝日丸は患者を乗せて1942年2月11日、紀元節の日に佐世保に帰投した。 整備の後、朝日丸は再び南方に進出。この時、朝日丸は病院船としての必要物資、人員の他に、戦艦金剛、榛名宛の弾薬560発も搭載していた。朝日丸はダバオに加えてセレベス島、ティモール島方面で行動した。しかし、ティモール島クパン近海を航行中の3月26日、朝日丸はイギリス空軍機の爆撃を受けた。幸いにして直撃弾はなかったものの、すぐさまこの事実は大本営発表で報じられ、日本政府は中立国を通じてイギリス政府に抗議した。朝日丸は4月28日に佐世保に帰投後、播磨造船所で船体の修繕に並んで赤十字標識の改正、設備の入れ替えなどを行った。 改修なった朝日丸はミッドウェー海戦に参加したが、敗北により進路を変えてトラック諸島に入港し、海戦で沈没、損傷した重巡洋艦三隈や最上の負傷者を収容した。その後も、日本本土と南方占領地を幾度となく往復し、医療品の輸送と現地での治療、傷病兵の送還に活躍した。1943年11月10日、朝日丸は特設病院船としての任を解かれ、特設運送船となった。
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