現存する元寇防塁とは? わかりやすく解説

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現存する元寇防塁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 09:42 UTC 版)

元寇防塁」の記事における「現存する元寇防塁」の解説

防塁弘安の役以降数十年間にわたり維持修理されていたが、のちに管理されなくなり砂に埋もれていった。江戸時代福岡城築城の際に、石垣の石として防塁大半失われた考えられている。 1913年大正2年)に中山平次郎福岡日日新聞に『元寇防塁価値』という論説発表する。「元寇防塁」という呼称はこのときに中山独自にけたものであるが、これ以降、この呼称定着していくことになる。 防塁一部現存する以下の場所は1931年昭和6年3月30日に国の史跡指定された(1981年昭和56年3月16日一部追加指定博多地区は未指定)。一部の場所では、石塁露出した状態で見学できるようになっている。 なお、現在は埋め立てなどにより鎌倉時代当時よりも海岸線が沖へ延びているため、海岸から遠く離れた内陸部位置する元寇防塁跡もある。 地区所在地いずれも福岡市概要画像今津 西区今津地図 今津地区の北の長浜海岸松林内にある。約200mにわたり堀を設けて石塁の上部を露出させている(右の2枚写真のうち左側)ほか、土中埋まった状態で表面のみ露出している箇所もある(右の2枚写真のうち右側)。これらは一直線上にある日向国大隅国担当し毘沙門山山麓から柑子岳山麓の間の約3kmにわたり築かれ防塁一部にあたる。1913年大正2年)に元寇防塁初の発掘として2か所が発掘され1968年昭和43年)に本格的な発掘調査実施された。筑肥線九大学研都市駅から昭和バス西の浦行き乗車福祉村施設下車北西800m 長垂 西区今宿駅前1丁目地今宿地区市街地東側海岸部の長垂海浜公園内にある。石塁松林内の土中埋まっており、表面ごくわずか露出している場所がある。現在の長垂海浜公園区域を含む長垂山山麓から今山山麓にかけての約2kmの防塁豊前国築造担当した弘安の役後の乾元2年1303年)に同国築城郡吉富村の成富氏がこの地区防塁修理完了したことを報告する古文書がある。筑肥線今宿駅から東へ約700m、今宿姪浜バス長垂海浜公園バス停付近 生の松原 西区小戸5丁目地図 姪浜今宿中間位置する生の松原海岸にある。当時石塁埋められているが、当時と同じ高さの石塁復元されており見学できる。この地は弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』には竹崎季長がこの地で戦う姿が描かれている。長垂海岸から小戸海岸にかけての約2kmの防塁肥後国築造担当した1968年昭和43年)に発掘調査実施された。筑肥線下山門駅から北約800m今宿姪浜バス生の松原バス停より北東500m 向浜 西区小戸3丁目57地図 小戸公園西側松林内にある。石塁はなく説明板のみ。1921年大正10年)に内務省考査官が視察し石塁確認したとされ、史跡指定もされているが、1955年昭和30年)に台風による浸食崩壊したといわれる地下鉄筑肥線姪浜駅から昭和バスマリノアシティ行き乗車小戸公園下車西区小戸1丁目34地図 マリノアシティ福岡南側住宅地内にある。石塁はなく、芝生上に碑と説明板設けられている。1979年昭和54年)に発掘調査基底部のみ残っていることが確認されたのち、埋め戻された。肥前国築造担当した地下鉄筑肥線姪浜駅から昭和バスマリノアシティ行き乗車マリノアシティ下車、南約400m 百道 早良区百道1丁目10地図 藤崎地区住宅地内にある。約20mにわたり石塁表面露出した状態で保存展示されている。この地は文永の役の際に元軍が上陸し戦場となった1920年大正9年)と1969年昭和44年)に発掘調査実施された。築造担当した国は不明地下鉄藤崎駅西鉄バス藤崎バス停より北約200m 西新 早良区西新7丁目地西新地区の市街地のやや西の外れ明治通り防塁交差点北側入ったところにある。百道同じく文永の役で元軍が上陸し戦場となった地である。築造担当した国は不明西新7丁目側は西南学院大学体育館南側緑地にある。堀を設けて石塁の上部を露出させ、保存展示されている。百道地区と同様、1920年大正9年)と1969年昭和44年)に発掘調査実施された。西新6丁目側は西南学院大学キャンパス1号館館内にあり、同館の新築時に発見され防塁一部移築したもので、2001年平成13年)より公開している。この発掘では、石塁の約1m後方南側)に元寇防塁ではこれまで発見例のなかった土塁発見されており、発掘場所の防塁石塁土塁の二列構造になっていることが明らかになった。地下鉄西新駅から西約400m西鉄バス防塁バス停から北約300m西新6丁目側は西南学院大学事務局開局日・時間のみ見学可能) 早良区西新6丁目2-92地図 地行 中央区地行2丁目12-19地図 中央区北西端部の住宅地内の一角にある。フェンス囲まれ立入禁止となっており、説明板設置されているのみで、発掘調査行われておらず整備もされていない地下鉄唐人町駅から西約400m西鉄バス地行バス停から北約200m 博多 博多区奈良屋町1-38 博多小学校校舎地下石塁遺構展示室にある。1998年平成10年)、博多小学校建設にあたり発掘調査実施した際に発見された。石の積み方規模などが今津西新防塁類似し鎌倉時代には海岸部砂丘であった場所に位置するため、防塁推測されているが、断定する至っていないため「石塁遺構」と称している。史跡には指定されていない地下鉄呉服町駅北西400m西鉄バス蔵本バス停付近年末年始を除く土・日曜日10時から17時限り見学可能) 地蔵松原 東筥松4丁目1地図 箱崎地区鹿児島本線線路沿いに2か所ある。いずれも見学できる石塁はない。筥松4丁目側は地蔵松原公園内で、碑と説明板設けられている。1920年大正9年)に武谷水城発掘調査行い石材存在発表した1993年平成5年)の試掘調査では防塁構築に伴うと考えられる石材出土した2000年平成12年)度の発掘調査では人頭大の自然石直線状に並んでいるのが発見され、これが元寇防塁考えられている。箱崎6丁目側は九州大学箱崎キャンパス敷地一角にある。以前から埋蔵文化財包蔵地として周知されていたが、2016年平成28年)に九州大学キャンパス移転工事に伴い発掘調査実施し石積み遺構発見された。いずれも薩摩国築造担当した記録がある。地下鉄西鉄貝塚線貝塚駅から南約500m 東区箱崎6丁目8地図

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