現地での人口減
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:24 UTC 版)
「ロシアのシベリア征服」の記事における「現地での人口減」の解説
先住部族の居住地域に到着したコサックは白いツァーリ(モスクワのツァーリのこと)に服従し、ヤサクを払うよう宣撫工作を行った。この交渉はいつも成功裏に進んだわけではない。交渉が拒否されると、コサックは武力を用いた。1645年のヴァシーリー・ポヤルコフや1650年のエロフェイ・ハバロフ(商人であり、コサックではない)らによって、ダウール族などの多くの先住民がコサックに殺された。カムチャツカ半島の嘗ての2万人から8000人がロシアが征服してからの半世紀後に残った。ハバロフが初めて来た時は、ロシア人の残酷さを聞いていたのでダウール族は当初村を捨てた。二度目に来た時はダウール族は逆にロシアと戦うことを決めたが、ロシアの銃砲で虐殺された。17世紀、アムール地方の原住民は、「赤髭」として知られることになるロシア人に攻撃された。 西洋の歴史家スティーブン・シェンフィールド(英語版)によると1640年代にヤクートはレナ川近くの土地にロシアが侵攻している間に暴力的な遠征に支配され、1690年代のカムチャツカ半島ではコリャークやカムチャダルイ(英語版)、チュクチもロシアに支配された。ロシアが要求した量のヤサク(英語版)を先住民から得られないと、コサックのヤクーツク知事ピョートル・ゴローヴィンは、肉用の留め金を用いて、先住民を吊るした。レナ川流域ではヤクートの70%が40年に亘りヤサクの支払いを拒否し、強姦や奴隷化が先住民の女性や子供に対して用いられた。 ジョン・F・リチャーズによると、 天然痘は1630年に初めて西シベリアに達した。1650年代、ツングースとヤクートで80%にまで感染したエニセイの東に移動した。1690年代、天然痘の流行(英語版)でユカギルの人口は44%にまで減少した。疾病は急速にシベリアの部族間を移動した。流行による死亡率は、人口の50%に達した。若者に激しい結果をもたらして災難は20年-30年の間隔で戻ってきた。 カムチャツカ半島ではロシア人は1706年と1731年、1741年にロシア人の支配に対するイテリメン族の反乱を鎮圧し、1回目はイテリメン族は石の武器で武装し、準備不足で装備を整えたが、2回目は火薬の武器を使った。1745年から1756年まで勝利の時まで銃と弓を装備したコリャーク人を手なずけようとするとロシア人はさらに強力な抵抗を受けた。ロシアのコサックも激しい抵抗を受け、1729年、1730年から1731年、1744年から1747年にチュクチを集団殺戮で絶滅させるのに失敗すると、降伏せざるを得なかった。1729年にチュクチ領でロシア人が敗れると、ロシアの司令官パヴルツキイ少佐はチュクチ戦の責任者になり1730年から1731年に大量殺戮とチュクチの女性や子供の奴隷化を行ったが、その残忍性はチュクチの戦いを一層激しくしただけであった。チュクチとコリャーク人に対する殺戮は、元々の土地から完全に追い出し戦争で文化を消去するように1742年にエリザヴェータ皇帝から命じられた。この命令は先住民はチュクチの男性を大量殺戮し戦利品として女性と子供を奴隷にする「全能の神の助けを得て殿下の獲得品に」コサックを率いた1744年から1747年のこの戦争で再び率いるパヴルツキイと共に「完全に絶滅されるべき」というものであった。しかしチュクチはこの戦役を終え、パヴルツキイを殺し首をはねて降伏させた。ロシア人も戦争を開始し、1744年と1753年から1754年にコリャーク人に対する大量殺戮を開始した。ロシア人が先住民をキリスト教に改宗させようとすると、コリャーク人やチュクチ、イテリメン族、ユカギール人のような異なる先住民は全て1746年にニジネカムチャツク要塞に対する攻撃で最高潮に達しながら1740年代に自分達の土地からロシア人を追い出そうと連合した。今日のカムチャツカは、ロシアが支配した最初の10年を通じてイテリメン族やコリャーク人の1697年の併合後にコサックに大量殺戮されたために嘗ての15万人が約1万人に先住民がたった2.5%に減少しながら人口統計や文化の上でヨーロッパに属している。コサックによる殺戮は、カムチャツカ半島の先住民を打ちのめした。大量殺戮に加えてコサックは毛皮の為に大量の動物を殺戮したことで先住民たちの生活基盤を破壊した。カムチャダル族(英語版)の90%とマンシ人の半数が18世紀から19世紀にかけて殺され、現地の人々が急速に大量殺戮されたことで1882年現在ニコライ・イアンドリツェフにより名付けられた約12の部族が絶滅しながら全部族が完全に絶滅することになった。大量殺戮の多くは、毛皮取引により行われた。 西洋の歴史家ジェームズ・フォーシス(英語版)によると、アリュート族の女性と子供がこの関係を維持する方法として人質として捕えられる一方でアリューシャンの男性がロシアの為に狩りをしたので、ロシアが支配した最初の20年はロシアの臣民であった。 シベリアにおけるロシア人の19世紀におけるオブラストニキは、先住民が計り知れない暴力的な搾取を受けかねなかったことを認め、提案された地域政策を伴う状況を改めることになったと主張した。 ロシアによるシベリアの植民地化と当地の先住民の征服は、先住民に対する同様のマイナスの影響や土地の収用と共にヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化や先住民への対応と比較されてきた。スラブ系ロシア人はブリヤート系先住民やアルタイ系先住民を凌駕しながらスラブ系ロシア人がブリヤート共和国やアルタイ共和国で多数派を形成しながらトゥヴァ共和国を除くシベリアやそこの都市の先住民全てを凌駕した。ブリヤート人は自分の共和国で29.51%しか占めておらず、アルタイ人は3分の1しか占めておらず、チュクチやエヴェンキ、ハンティ人、マンシ人、ネネツ人は、人口の90%を非先住民に凌駕されている。先住民は生活様式を変えるようツァーリやソ連の政策に狙い撃ちされ、少数民族のロシア人は、ツァーリやソ連に挑発された先住民のトナカイの群れやワイルドゲームを与えられた。トナカイの群れは、絶滅させる失敗を犯している。
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