演習林誕生(第2期)
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「京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」の記事における「演習林誕生(第2期)」の解説
こうして誕生した芦生演習林であるが、すでにあった東京帝国大学や北海道帝国大学といった他の帝国大学の国内演習林が国有林設定の形で演習林地を取得し、伐採した材木の販売益を100%自らの収入とできたのとは異なり、地上権を設定した借地契約であり、収益については当初40年間は地上権者が地権者に最初の5年は年5万円ずつ、残り35年間は毎年1万円ずつ支払い、その後は伐採した材木の販売益を地権者と折半する分収方式であった。これは先発の大学に早く追いつきたいが、広大な林地を買収するだけの財政的な裏付けがないことから、やむを得ず選択された手法であった。ところが、契約後間もない1922年3月に当初地権者と契約していた分配金5万円が支払われず、同年8月になって年間の伐採益の全額として村に支払われた金額が1万円だけだったことから、契約の不履行として、告訴も含めた大きな騒ぎとなってしまった。結局、大学、京都府、地元を交えた議論の中で調停が行われ、1923年4月に契約の一部を修正して、地権者側の伐採収益取得の権利を地上権者側に譲渡し、地上権者側は代償として、39年間の借地料金利の積算額である22万円を同年中に地権者側に支払うことで和解した。このような山林地上権での基準対価による契約更改は京都府下においては前例のないものであり、地上権を固定額で契約したことも含めて後々村側に不利になった側面があったことは否めない。ただ、知井村の側においてもこの22万円を基金として部落有林の一元化を実現しただけでなく、戦前には村の財政において演習林からの安定した財産収入が、昭和恐慌期において村財政を窮乏から救った効果は大きいといえる。また、契約時に木材搬出ルートの設定を、隣接する朽木村経由や佐々里峠を越えて広河原や花脊を経由するものではなく、村内を東西に横断する形で設定するよう求めたり、天然更新林での伐採や処分の権利が喪失しないように求めている。この他、演習林の開設によって地元芦生の住民をはじめ地域住民の雇用の場を創出した効果も大きいといえる。 一方でこのような騒ぎをよそに、施設の整備は進められていった。1923年に演習林事務所が建築されたのを皮切りに、林内での作業所や苗畑といった施設の設置が行われたほか、1925年には出合(現在の京都広河原美山線との分岐点)から演習林事務所に至る車道が開設され、1927年には由良川源流に沿って事務所から七瀬に至る森林軌道の軌道敷開削工事が開始、1934年には事務所 - 赤崎間にレールが敷かれた。なお、演習林事務所については1930年に現在の事務所が新築された。また、施業の面では1924年に造林事業が、1925年にはしいたけの栽培が開始され、 1933年からは木炭の製造も開始されている。造林事業については、当初杉の伐採を行ったところ林相の悪化を招いたために一時伐採を中止、その後はしいたけ栽培や木炭の製造のための雑木伐採、枕木用の栗材の伐採跡に杉の造林を行った。 この時期の演習林では、学術的な研究を重視した経営方針が立てられていた。当時の京都帝大の演習林では台湾演習林において樟脳の生産が行われ、樺太演習林においては材木の伐採によって収益を上げていたが、芦生演習林においては学術研究の実地拠点にしようとする期待が大きく、学術的な成果を挙げようとする動きが強く働いたことから、「営利的施業より理想的な施業」として、営利目的より学術的な成果を重視する立場を取っていた。こうしたことから、並行して材木の伐採も続けられていたが、しいたけ栽培の原木と用材の択伐のほか、枕木用の栗材や木炭生産用の雑木の伐採が主であった。しかし、昭和恐慌から日中戦争を経て太平洋戦争へと続く時代の流れの中で、軍事費増大による大学予算の削減から大学の収入源確保を求められたことや、国策遂行のために協力を求められたことから、理想的な経営方針は変更を余儀なくされていく。1934年に開通した森林軌道の沿線を中心に、木炭用の雑木や枕木用の栗材が大量に伐採されたほか、ブナ材は飛行機のプロペラ用や梱包材として伐採された。中でも木炭の生産は年を追うことに増加し、昭和十年代における京都帝大の年間木炭需要1万4千俵を大きく上回る俵数を生産、余剰分は市中に販売されて貴重な収入源となったほか、「大学炭」として新聞にも紹介されるほどであった。太平洋戦争に突入後は、総力戦遂行のための林業資源確保のために、1943年には小野子谷方面へ森林軌道の延伸が行われ、伐採面積の拡大に対応していった。こうした伐採面積の拡大は同時に演習林の荒廃を進行させることとなったが、戦時体制の前では如何ともしがたく、このまま終戦を迎えることとなった。
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