海上技術・実用試験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 11:11 UTC 版)
しかし海上技術・実用試験では、各段階で様々な問題が生起した。1年目にあたる1975年には、出航して船体振動を受けると電源断や誤動作が発生してまともな作動が得られず、そもそも試験を開始できない状況が続いた。ここで発生した問題の一つが、レーダー送受信機の立体回路の核となる発振管 (CFA) の信頼性不足で、一千数百万円と高価ながら1,200時間以上の寿命が標榜された輸入品を使用していたにも関わらず、試験では、長くて二百数十時間程度、短いときは数十時間でダウンする状況であった。試作機全体のメーカーである三菱電機はCFAの信頼性の問題と判断していたが、同社の担当者とCFAのメーカーであるレイセオンの担当者とを「むらくも」艦上に召致して検討したところ、CFAそのものには問題がなく、送信機キャビネット内に漏洩した電波とCFA内の発振電波とが共振した結果としてCFA本体にクラックを生じていることが判明し、キャビネット内に電波シールドを貼るだけで解決したことから、三菱電機の完敗となった。 またこの他にも、国産電子管の絶縁低下等の問題も発生し、その解決に半年を要したため、海上技術・実用試験も昭和51年度まで延長された。これにより、試験完了見積もりが昭和53年度にずれ込んだことから、当初計画されていたしらね型(50DDH)での採用は断念され、オランダのシグナール(現在のタレス・ネーデルラント)社からWM-25を輸入して装備することになった。 2年目にあたる1976年には何とか動かせるようになって試験が進み始めたが、追尾試験においてシークラッター(海面反射)への対処が問題となった。当時、海上自衛隊としても技本としても確たるフィールド・データを持っておらず、公刊学術データを基に設計製作していたが、実際には日本近海の冬季におけるシークラッターは1,000倍(30 dB)も大きく、目標追尾が安定しないというトラブルが生じた。またレーダーアンテナや増幅器、武器管制コンソール、ソフトウェアにも不具合が相次ぎ、システムは満身創痍の状態となった。 度重なる改修にも関わらず、この状態は1977年に入っても解決せず、2・3月にかけての対電子対策(ECCM)性能試験、追尾・射撃試験では満足な成果を得ることはできなかった。特に簡易曳航標的への水上射撃試験では追尾が標的から外れた結果、クラッターの影響もあって弾着が曳航艦のほうに移動していくという状況が発生、続いて行われた対空射撃試験では、試験艦「あづま」から発進した低速ドローンを撃つはずが、またしても追尾がドローンから外れた上に、射界外にいた「あづま」をロックオンしてしまい、2斉射4発の射弾が同艦のマストをかすめるという最悪の事態に至った。 この情勢を受けて、実用実験隊(現在の艦艇開発隊)では、実用試験の継続は困難との意見が台頭するに至った。ポスト4次防艦ではFCS-2の搭載が予定されていたが、開発失敗に備えて、しらね型で採用されたWM-25や、そのアメリカ版であるMk.92、イギリスのSAPHIRE、スウェーデンの9LV200、更にはFCS-1のデジタル化版や、81式短距離地対空誘導弾のFCSの派生型(1面回転式PESAを使用)なども俎上に載せられる状況であった。特に81式短SAM派生型については、揚陸艦に仮装備してのデモンストレーションも検討されたが、これは実現しなかった。 1977年8月の装備審査会議調整部会での決定に基づき、シークラッターへの対応策として、ドップラー処理を利用したMTT(Moving Target Tracker)、MTI (Moving target indication) が新たに開発されて組み込まれることになったが、これによって「小型射撃指揮装置」として課せられていた厳しい重量制限の達成は不可能となり、基本要目も変更された。その後も試験の難航は続き、ポスト4次防艦の嚆矢となる52DE(後の「いしかり」)に搭載するFCSを決定するべきタイムリミットである1978年8月が迫ってきた。そして1977年12月21日と1978年1月26日に、海上幕僚監部防衛部長列席のもとで、FCS-2の進退を決める会議が開かれて、下記の決定が下された。 全力で全面改修(第7次改修)に取り組み、FCS-2の成功を目指す 実験隊司令をリーダーとする官民合同の特別グループを編成する 改修に失敗した場合、52DDのミサイル指揮装置はWM-25とする これは実質的にFCS-2に与えられたラストチャンスであった。この決定に基づき、1978年2月、実験隊司令 小綿海将補の下に、関東地方の技術研究本部・海上幕僚監部および実施部隊の幹部を糾合して支援グループが編成され、またメーカーである三菱電機でも、鎌倉製作所の専門家を結集したグループが設置され、官民の力を結集したプロジェクトが発足した。上記の通り、これは全面改修であり、海自側特別グループが改修の細部にまで目を通すこととなった。システム全体の見直しや計算機プログラムの変更、ドキュメントの改訂やオーバーホール等について連日のように審査会が開かれた。この結果、警戒レーダーと追尾レーダーの機構部不具合改修、方位盤の重量軽減対策、測的系のカルマンフィルターのα―βフィルターへの変更、射撃計算系プログラムの全面再構成等、数多くの改善対策が実施された。 両グループの精力的な取り組みによって問題は解決され、1978年4月に改修が終了して5月より試験を再開した。射撃試験では、通常の護衛艦の訓練射撃弾数の1年分に相当する数百発の76mm砲弾を1日で撃ち尽くすという凄まじい場面もあったが、今度は順調に経過し、データは要求精度内に収まっていた。8月の対空射撃を経て、海上技術・実用試験は10月に成功裏に終了、1979年3月に、81式射撃指揮装置として制式化された。
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