東京会談
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8月23日午後5時30分、各軍の高級者が集められた会談が国連軍司令部の置かれた東京の第一生命ビル6階で開かれ、マッカーサーに仁川への上陸が困難である理由が示された。 釜山から420キロメートル離れた仁川に上陸作戦を行っても、南北に呼応した作戦としては距離が離れすぎている。 マッカーサーが要求した兵力は在日米軍の予備兵力のほぼ全てで、日本の治安維持に問題を生じかねない。 先鋒には精鋭である第5海兵連隊(英語版)を釜山橋頭堡から引き抜く必要があったが、そのことで釜山橋頭堡が弱体化して陥落してしまっては上陸作戦そのものの意味がなくなってしまう。 2個師団では兵力として乏しく各個撃破の恐れがありアンツィオ上陸作戦の二の舞になりかねず、予備兵力もない。 仁川港は、7万の兵員と装備を揚陸するには能力不足である。 上陸作戦に第8軍の補給用の船舶を転用することで、万が一にも作戦が失敗した際には収拾が付かなくなる。 仁川港は干満の差が平均6.9メートルと非常に大きく最大で10メートルにもなり、干潮時には港の周辺はおおよそ3.2キロメートルの干潟となってしまう。特にこの干満差の大きさは、海軍が反対する大きな理由であった。幅2キロメートル弱、長さ90キロメートルの水道以外に接近するルートがなかったうえ、水道を機雷で封鎖される可能性があった。。 さらに作戦実行は大潮で潮位が最も上がる9月15日、それも朝晩2回の満潮時刻の2時間に揚陸を行うことが絶対で、10月以降は玄界灘・黄海の季節風の影響から延期が困難だった。また、作戦意図が北朝鮮に察知された場合、これらの自然条件から作戦実行日だけでなく実行時間まで特定しやすかった。仁川港の入り口には堅固に防衛された月尾島(ウォルミド)があり、上陸作戦の前にこの島を占拠しなければならなかったが、事前の制圧射撃が必要となるため奇襲が望めなかった。 上陸用舟艇の接岸に適した砂浜も無く、兵士達は高さ5メートルの岸壁をよじ登らなければならなかった。また上陸地点の一部は仁川市街のビル街の正面の岸壁で、市街地直前に直接上陸しなければならず、建築物が大きな障害になりかねなかった。 コリンズ陸軍参謀総長らは仁川上陸作戦へ反対すると共に、群山への上陸作戦を代案として示した。群山は釜山橋頭堡により近く、地形的、海象的な問題点もなかった。シャーマン海軍作戦部長はこれに直ちに同意し、列席者の発言は終わった。 マッカーサーはこれらの反対意見はそれまでにも繰り返し指摘、説明されていた。今回の説明にも質問をほとんどすること無いまま聞き終えると、フレンチ・インディアン戦争のケベックの戦いで、城壁で囲まれたケベックを防御していたフランス軍に対し、攻撃側のイギリス軍が地形障害の克服と奇襲効果により勝利を収め戦争終結に導いた故事を引き合いに、作戦の必要を説く45分間の大演説を行った。 マッカーサーの演説を要約すれば、 北朝鮮軍は釜山橋頭堡に兵力を集中させている。 上陸が困難であるということは相手は上陸を予想していない。 地形的、海象的な物理的障害は難点ではあるが、海軍の能力から考えて不可能ではない。 群山への上陸は敵の補給線の切断に繋がらないため、決定的な戦果を得られず、第8軍が釜山橋頭堡に立てこもる状況は変わらない。 北朝鮮軍の補給線は一度ソウルを通過するかたちをとっており、ソウルを奪取することで朝鮮半島南側の北朝鮮軍への補給を遮断できる。 東西対立の最前線である朝鮮半島で敗北することは欧州へ悪影響を与える。 という内容であった。陸海軍首脳はマッカーサーを説得できないまま帰国し、マッカーサーへは8月29日に統合参謀本部から仁川への上陸に同意しつつも群山上陸作戦を「期待」する命令が届いた。 それでもマッカーサーの決断は変わらず、8月30日に、国連軍司令官として陸海軍首脳の説得を振り切る形で下令した。 ところが直後の8月31日深夜から北朝鮮軍の9月攻勢が開始されると、第8軍は各所で戦線を浸食され、予備兵力のすべてを投入する事態になった。東京、ワシントンでは悲観論が広がり、洛東江防御線を放棄しダヴィッドソン線への後退も議論された。ウォーカー中将は仁川上陸作戦で第一陣をつとめることが決まっていた第5海兵連隊を霊山の戦線に投入し、これに反発した海兵隊とトラブルが生じた。ワシントンの釜山防衛への見通しの憂慮は深く、ブラッドレー統合参謀本部議長は9月5日、マッカーサーに計画の翻意を求めるメッセージを送ったが、9月6日、マッカーサーは計画変更が不用である旨を返信した。 ブラッドレーはその後も作戦変更を求めたがマッカーサーの意志を変えることは出来ず、9月9日(日本時間)、作戦は承認された。
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