東京伝道
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「チャニング・ウィリアムズ」の記事における「東京伝道」の解説
呼び寄せた宣教師を迎えるため東京に伝道の拠点を移したウィリアムズは、1874年、築地居留地に私塾「立教学校」(のちの立教大学)を開く。同年、ウィリアムズは深川西元町に教会堂を建て、翌1875年に献堂式を行う(東京における米国聖公会の最初の会堂、聖三一教会)。また、婦人教育を行うことも必要だと考えたウィリアムズは、1872年に女学校を設立する構想を提示し、1877年にはブランシェにより湯島に立教女学校(のちの立教女学院)が設立される。同年、米国聖公会から派遣されたフローレンス・ピットマンが来日し、立教女学校の校長となりブランシェ夫人を支えた。1877年10月に、ウィリアムズは東京・入船町の邸内に「東京三一神学校」(のちの聖公会神学院)を開設。1880年には、立教学校はジェームズ・ガーディナーを校長に迎え、新校舎の建造を進め、1883年に米国式カレッジである立教大学校を開設する。 1872年9月20日から25日にかけて、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜にて開催される。日本では当時米国聖公会の宣教師のほかにもイングランド国教会の宣教師がそれぞれの教会の監督の下活動しており、両者が連携して活動すべきであると考えられたからである。この会議により、同一の日本語祈祷書を用いることや神学校を設立することが決定していたことから、ウィリアムズが家塾のかたちで始めた東京三一神学校を母体として、1878年10月に、ウィリアムズを校長に新たな「東京三一神学校」が設立された。同年、ビクトリア主教(日本でイングランド国教会の宣教を担当する主教)が不在の間、ウィリアムズ主教は彼の代わりに行動するように要請され、パームサンデーに東京のアレクサンダー・ショー牧師の礼拝堂で32人に堅信を授けた。
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