日本の仏教の巡礼
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日本の仏教における巡礼について説明する。 養老2年(718年)、長谷寺の徳道の病の床での夢に閻魔大王が現れ、「世の苦しむ人々のために三十三箇所の観音霊場を作って巡礼を勧めよ」と言い、起請文と三十三の宝印を授けた。夢から覚めた徳道は宝印に従い三十三箇所の霊場を設けるが、世の信仰を得ることが出来ず発展しなかったため、宝印を摂津中山寺で石棺に収めたと伝えられる。 空海(774年-835年)の入定後、修行僧らが空海の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を「修行の場」とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。こうして密教の修行僧などによって「修行として巡礼」が行われていたわけだが、室町時代にこれが庶民にも広がったと云われている。 「四国八十八箇所」も参照 寛和2年(986年)、19歳で出家した花山法皇は比叡山で修行の後、三十三箇所観音霊場巡礼を発願し、書写山圓教寺の性空と共に中山寺で石棺の宝印を捜し出して永延2年(988年)に紀州熊野から宝印の三十三箇所霊場を巡礼し再興を祈願した。これが現在の西国三十三所の起源といわれている。 源頼朝(1147年 - 1199年)が深い観音信仰を持っていたことから、西国に倣って坂東三十三箇所霊場を発願、実朝の代になって成立したものと考えられている。福島県の八槻都々古別神社観音像の墨書銘に、「僧成弁が三十三箇所巡礼中に八溝山観音堂での三百日参篭中別当の求めによって天福2年(1234年)に観音像を作った」とある。このことからこれ以前に坂東三十三箇所が成立していたとみられる。 平安時代末期には、日本では飢饉が頻繁に起きたり疫病が流行し非常に多くの人々が死に、社会は乱れに乱れ、おまけに日本の仏教も次第に変質し、宗派の僧侶の多くも堕落して戒律を守らなくなってしまったり、人々の心を救うことはなおざりにするようになってしまっていた。まさに仏教で古くから「末法」として予言されていた通りのことが日本で起きてしまっていた。かくして末法思想が人々に支持されるようになった。「末法」になってしまったこの世でどうしたらよいのか? 人々は悩み苦しんだ。末法という悲惨な状況を前にして日本の仏教では、大きく二つの潮流が生じた。 一方の浄土信仰をする人々は、(もうこの世では救われることは絶対に無い、と考えてしまい)遥か西方に「浄土」があると信じ、死後にそこに行けることで救われると信じ、極楽往生を願う巡礼が行われた(後白河法皇(1127年 - 1192年)の熊野詣でなど)。熊野を「極楽浄土の地」としてとらえ、熊野への巡礼がさかんになった。その理由として『日本書紀』の一書に「イザナミノミコトが紀伊国の熊野に葬られた」とされていること、熊野の語源説の一つに「クマ=こもる」で「死者が籠る地」があることで、熊野を「死者の国」とみる考え方がもともとあったため、ともされる。奈良時代より修験道の修行地となっていた熊野三山の本宮を阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮を薬師如来の東方浄瑠璃浄土そして那智大社を「千手観音の南方補陀落浄土」として「現世の浄土の地」と考えることでその信仰が深まったと考えられる。 他方、日蓮(1222年 - 1282年)は「『法華経』二十八品、「妙法蓮華経」こそ釈迦が衆生救済の為に説いた真実の教えであり、この末法の世を正すものである」と説き、この世を諦めてしまって死後の西方浄土を願ったり念仏を唱えたりしてしまうのではなく、法華経を根本にすることで自分の生命のありかたを変えて、この世で実際に幸福を築くべきだと説いた。日蓮は弟子のひとりの(そして役人の仕事をし、仕事上の悩みをかかえた)四条頼基に対して「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」つまり「あなたの普段の仕事の場こそが、法華経の行者であるあなたにとっての修行の場だと思いなさい」といった意味の内容を手紙で書いて諭したとされ、日蓮の弟子やその後の信者たちは「普段の仕事の場や普段の生活の場や普段の人間関係の場こそが修行の場である」と考える。そして世界は決して"俗なる場所"と"聖なる場所"に分けられているわけではない、と基本的に考え、巡礼という"聖なる場所"へ行く行為で自分が変われるなどとは期待しておらず、(日蓮の信徒は、本当に大切なのは巡礼ではなくて、普段の自分自身、つまりたとえば普段から自分の根底にある想いをよく選び、普段から全ての人々の幸福を願う想いを持ち、普段から良い言葉を選び周囲の人々に幸福をもたらすような言葉をかけ、普段から 幸福を皆にもたらすような良い行動をすることだ、などと考えているので)、結果として日蓮の信徒はいわゆる「巡礼」に熱中するようなことはあまりない。ただそれでも日蓮宗の多くの宗派では、法華経には「末法の世を救う上行菩薩世が出現する」「末法にこそ本仏が出現する」と予証されていた(予言されていた)と考えはするので、その本仏である日蓮ゆかりの久遠寺、池上本門寺、清澄寺、誕生寺(「日蓮宗四霊場」とも)のほか、鎌倉の地にある日蓮ゆかりの諸寺(安国論寺、長勝寺など)などへ巡礼を行なう人も(若干は)いる。 かくして日本では観音信仰、密教信仰(大師信仰)、浄土信仰、法華経信仰、日蓮への信仰 等々 それぞれの立場で巡礼が行われていたわけであるが、近世に入ると平和な世の中を反映して、庶民が信仰上の巡礼を目的としつつも旅行としても楽しむようになり、巡礼は大衆化した。
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