日本における外食の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 07:15 UTC 版)
「茶屋」が登場したのは室町時代といわれ、職人歌合など中世の図像史料には寺社の門前で簡素な店舗を営み茶食を提供する職人の姿が描かれており、近世に至る前近代には外食業は寺社との関係が濃密であった。 近世には都市が発達し旅人の往来する街道沿いや参詣地である寺社、遊興施設など集客機能を持った場所が成立し、また物流網が発達し青物や海産物、乾物など多様な食材が安定的に供給されるようになり、料理屋など外食産業が成立する基盤が整えられ、都市の経済的発展や賑わいを示す要素にもなっている。 江戸時代初期には「飯屋」(めし屋)が登場し、例えば井原西鶴の「西鶴置土産」によれば、1657年に浅草に出店した飯屋の奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆のセットメニュー)は人気を博したという。中期から後期にはそば屋や、留守居茶屋(料亭の起源といわれる。大名がいない間、大名屋敷を預かる留守居役を相手とした高級茶屋。会席料理を出していた)、居酒屋などの業態が登場したとされる。また、惣菜用の料理を扱う「煮売屋」が茶屋(煮売茶屋)を兼ねて料理を提供することもあった。 また江戸では、蕎麦、寿司、天ぷらなど、屋台の外食産業が盛んとなり、また江戸時代の料理屋としては芝居小屋など娯楽施設と近接し、飯盛女を雇用した売春を兼業することもあった。娯楽施設に近接する料理屋はその性格から博徒などアウトロー集団や犯罪に関わる情報が集中しやすく、一方で目明かしなど公権力の人間も出入りし、犯罪発生と治安維持の両側面をもった性格であることが指摘される。こうした料理やの多面的性格は近代に売春業は遊廓、治安維持は警察と都市における機能分化がすすみ、純粋に飲食のみを提供する施設へと変化していく。 これらの業態は、個人による生業(なりわい)的なものがほとんどで、「のれん分け」による支店としての関係にとどまっていたが、1960年代にアメリカで起こったフランチャイズブームをきっかけに、日本にもフランチャイズ形式の店舗が登場する。 1963年にはダスキンがFC1号店を出店し、不二家の洋菓子店FC1号店を出店。1970年、日本万国博覧会会場にケンタッキーフライドチキンが出店し、翌1971年にはマクドナルドが銀座三越に出店、同年にはミスタードーナツも第1号店を出店した。ファミリーレストランでは1970年にすかいらーく、ロイヤルホストが出店している。1973年には吉野家が神奈川県小田原市にフランチャイズ第1号店を出店、同年にはシェーキーズも渋谷に第1号店を出店している。 1970年代から1980年代には、セントラルキッチンやPOSが導入され、より効率化が図られた。市場規模は、1980年で14兆7000億円に、1980年代後半には、20兆円を越えた。1980年代にはフランチャイズ形式を取り入れた居酒屋が登場しており、1983年には東京都内に白木屋1号店である中野南口店が出店している。 1990年代にはバブル崩壊によって成長は鈍化した。一方でバブル崩壊による地価下落等により地価や家賃が安くなり、ファミリーレストランの都心部への出店や、居酒屋チェーンの郊外への出店が容易になった。1990年代後半以降は、スターバックスなど外資系コーヒーチェーンも進出している。 2000年代には、2001年のBSE問題、2004年の鳥インフルエンザの流行が、関連店舗に打撃を与える。また飲酒運転の取り締まり強化がアルコール販売に影響を与えた。マクドナルドの80円バーガーなど低価格競争が話題になったが、収益は改善せず低価格競争からの脱却を計っている。日本の外食産業は成熟期に入り、価格から質へと方向が変化している。また、質の向上に伴い、例えばラーメンのレベルが高くなり新規出店のハードルが上がるといった状況もある。
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