日曜19時クイズ番組戦争
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関西広域圏の放送局が製作する番組同士の争いでその競争期間もごく短期ではあったものの、いずれも全国ネット番組でクイズ番組間での視聴率対決として視聴率争いを繰り広げていた。 1963年10月より毎日放送の制作によって日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)系列で全国ネットによる放送を開始した『アップダウンクイズ』(以下『アップダウン』)は、放送時間を19時から19時30分までの30分番組ながらも、約22年に及ぶ長寿番組となり、10問正解してハワイ旅行が獲得できるクイズとして人気を博し、スタート当初は初代出題者、翌1964年4月より二代目司会者となる小池清と1972年11月より3代目出題者に就任した佐々木美絵とのコンビも番組名物となった。 この間1960年代はTBSの『タケダアワー』、1970年代前半はフジテレビのアニメ枠(1971 - 1972年の『ミラーマン』のみ特撮)と鎬あいを続け、特に前者での『柔道一直線』と後者での『アタックNo.1』がそれぞれ放送されていた1969年頃には、その影響で『アップダウン』は視聴率を落としたが、どちらも同じ「スポーツを題材にした漫画原作を映像化したドラマ・アニメ作品(通称・スポ根もの)」でありながら、視聴者層がそれぞれの番組で異なっていたのと、両番組の開始を機にそれまでテレビを見ていなかった年齢層が両番組を中心に見るようになり、それによって全体のテレビ視聴者数が多くなったことで、両番組放送開始の影響による視聴率の低下はごくわずかで済んた。視聴者層は『柔道一直線』では主に小学生 ~ 高校生の男子、『アタックNo.1』では主に小学生 ~ 高校生の女子、『アップダウン』は主に大学生以上の男女が視聴者の中心層であった。なお、『柔道一直線』は1971年4月に、『アタックNo.1』は同年11月にそれぞれ終了してからは、その視聴者層の一部が『アップダウン』に移行し、結果として視聴率が上昇したのみならず、同番組の視聴者層が幅広くなった。その後、『アップダウン』が1975年3月31日の腸捻転解消でNETよりTBSへ移動後は、日本テレビの『びっくり日本新記録』(読売テレビ制作。途中2度にわたる中断あり)や、東京12チャンネル→テレビ東京の若者向け歌謡バラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』まで加わり、『アップダウン』を失ったNETは一気に人気低下、NETがテレビ朝日に社名変更した1977年4月に、土曜19:00から朝日放送(現:朝日放送テレビ)制作・日本メナード化粧品一社提供のクイズ番組『三枝の結婚ゲーム』が移動、以後メナード提供のクイズ番組を継続したが、『アップダウン』には歯が立たず、1981年5月開始の『ヒラメキ大作戦』継続中にメナードが降板、そして終了後の同年10月からは金曜19:30から児童向けドラマ『それゆけ!レッドビッキーズ』(以下『レッドビッキーズ』)が移動(同時に制作もテレビ朝日から朝日放送に移動)、クイズ路線が中断した。 『レッドビッキーズ』終了後の翌1982年4月より放送開始の『三角ゲーム・ピタゴラス』からクイズ路線を復活、そしてその翌1983年3月に、朝日放送(現ABCテレビ)がこれまで関西ローカルの番組で日曜日午前11時台に放送していた『世界一周双六ゲーム』(以下『双六ゲーム』)を『アップダウン』と全く同じ放送時間帯に移動させて全国ネット化したことで同番組の裏番組となり、ここにMBS対ABCのクイズ番組間での本格対決が始まった。 純粋に出題者がクイズの問題を出してそれに解答者が答えるという、当時は一般的なクイズ番組のシステムであった『アップダウン』に対して、『双六ゲーム』はクイズに正解すれば双六にチャレンジする権利が与えられる、ゲーム性を混在させた番組構成が視聴者に大受けし、『アップダウン』は急速に視聴者を『双六ゲーム』に奪われる形で視聴率が激減した。 このため同年10月に『アップダウン』は大幅な内容のリニューアルを実施することを決め、司会を小池から俳優の西郷輝彦に交代し、「この人クイズ」などの廃止とそれに代わる「リポータークイズ」「シンクロクイズ」を新設しクイズのルールも一部変更。番組セットも全面的に更新した。ところがこのテコ入れは失敗に終わり、クイズのルールも1984年4月に一部を除き元に戻すなどの迷走状態になった。その一方で『双六ゲーム』は前述のゲーム性の要素のある番組構成だけでなく、司会の乾浩明による進行も話題となったことで、一気に視聴率を上げた。『アップダウン』とは対照的に、『双六ゲーム』では番組の内容をあまり変えなかった(全国ネット化時にオーロラコースの追加と他の解答者とコマが重複した場合に6つ下げるルールを逆に6つ進ませるルールに変更した程度)。 1984年に入っても『アップダウン』は視聴率の低下に歯止めがかからず、1985年には特別番組やスポーツ中継で休止になることも多くなった。そしてこの年の8月12日に「日本航空123便墜落事故」が発生、これにより日本航空の番組協賛を自粛せざるを得ない状況となったこともあり、毎日放送は同年秋に『アップダウン』の終了を決断した。 しかし『アップダウン』との視聴率争いに勝利を収めた『双六ゲーム』も、1985年秋以降も引き続き高い視聴率を維持していたものの、今度は1985年3月に始まったフジテレビのアニメ『タッチ』に視聴者が徐々に流出するようになり、翌1986年春に終了した。 毎日放送では『アップダウン』の終了後は、同じクイズ番組である『クイズ!!ひらめきパスワード』を開始させたが、この番組が芸能人出演型にリニューアルされた翌1986年4月6日以降は、芸能人と司会の野村啓司とのトークのやり取りが好評を得たことと、『双六ゲーム』が終了したこともあり、視聴率が急速に上昇し、以後番組が終了する1992年3月までの間、裏番組の『タッチ』(同番組は1987年3月に終了)と互角の高視聴率を維持する番組となった(野村は1990年限りで司会者を勇退。翌1991年より後任は俳優の山城新伍が務めた)。
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