日曜18時台時代 - 放送時間再短縮
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「TWWAプロレス中継」の記事における「日曜18時台時代 - 放送時間再短縮」の解説
1972年4月2日からは日曜夕方に移動し、日曜18:00 - 18:55の1時間枠での放送が復活した(1時間枠復活初回は3月27日に行われた札幌大会の録画中継の2週目)。同時に放送開始以来続いていたスポンサー付き横幕がなくなった他、放映権料が30%カットされた。また、遅れネットに変更したり、ネットを打ち切る系列局が相次ぎ、視聴率も10%を割り込む週が目立ち始める。同年5月15日には、日本テレビが『日本プロレス中継』の打ち切りを正式発表したため、プロレス中継における日本テレビ対TBSの2局対立時代は終焉を迎える。実況生中継は同年6月25日に足立区体育館で行われた「'72ビッグ・サマー・シリーズ」開幕戦(草津VSバロン・シクルナを放送)が最後となり、同年7月2日放送の茨城県立スポーツセンター体育館大会の録画中継(6月27日開催)以降は完全に録画中継のみとなった。 1972年に入ってからは金網デスマッチが行われる会場は札止めの会場もあったことから、「'72ビッグ・サマー・シリーズ」以降、国際プロレスは番組収録が行われる会場でも金網デスマッチを頻繁に組むようになったため、金網デスマッチが行われた大会における録画中継は、珍などの中堅選手も登場するようになった。これを境に番組自体は、会場の人気とは裏腹に、猪木の日本プロレス除名やジャイアント馬場の日本プロレス退団で視聴率が低迷していた『NETワールドプロレスリング』→『NET日本プロレス中継』同様に、番組の衰退傾向が進むことになる。 国際プロレスは同年9月に木村が海外遠征へ出発したものの、日本陣営は小林、草津、同年10月に凱旋帰国した井上が支え、招聘外国人選手も、「'72ダイナマイト・シリーズ」と「'72ビッグ・ウインター・シリーズ」ではロビンソンやかつて日本プロレスに参戦していたバディ・オースチン、ビル・ドロモ、ブルーザー&クラッシャーを招聘し、金網デスマッチ人気も相まって、すでに弱体化していた日本プロレスを尻目に、興行面で日本プロレスに勝るようになっていく。 同年10月1日・8日放送の「'72ダイナマイト・シリーズ」小倉大会の録画中継(9月28日開催、10月1日は小林VSロビンソンのIWA世界ヘビー級選手権を放送)から再度日曜18:25 - 18:55の30分に短縮され、この時期から1試合しか放送されなくなり、2週に分けた分割放送が恒常化していく。さらに、10月8日放送の小倉大会の録画中継の2週目から、11月5日放送の「'72ビッグ・ウインター・シリーズ」群馬県高崎市体育館大会(10月30日開催)の録画中継までの6週にわたり、番組収録が行われた会場でメインイベントやセミファイナルにて金網デスマッチを行なったため、メインイベントが未放送となる事態となった。 「'72ビッグ・ウインター・シリーズ」では、同年11月27日に愛知県体育館で行われた初の金網タッグ・デスマッチであるブルーザー&クラッシャーVS小林&草津で暴動騒ぎが発生したが、当日は井上VSホセ・アローヨと、珍VSダイドーネ・ムッソリーニの2試合のみ収録を行っている(井上VSアローヨは12月3日に、珍VSムッソリーニは12月10日にそれぞれ録画中継)。この名古屋大会における暴動騒ぎは、中継協力局だった中部日本放送(現・CBCテレビ)の系列新聞である中日新聞の社会面で大きく取り上げられたほか、全ての在京スポーツ紙でも大きく報道された。このシリーズでは全日本プロレスを旗揚げした馬場が特別出場したが、日本テレビとの契約の関係上、馬場の試合は未放送となった。馬場が出場した2大会における番組収録は、同年11月29日東京体育館大会はブルーザー&クラッシャーVS小林&井上を、翌11月30日の茨城県立スポーツセンター体育館大会はブルーザー&クラッシャーVS小林&草津のみそれぞれ収録された(東京体育館大会は12月17日に、水戸大会は12月24日に録画中継)。この時期になると、金網デスマッチが行われた場合と行われなかった場合とでは観客動員数の差違が見られるようになる(1972年の水戸大会を例にすると、木村VSシクルナの金網デスマッチを行った「'72ビッグ・サマー・シリーズ」では超満員札止めだったが、馬場とブルーザー&クラッシャーが特別参戦したものの金網デスマッチ未開催だった「'72ビッグ・ウインター・シリーズ」では当日券が残っていた)。 1973年に入ると、国際プロレスは金網デスマッチへの依存度を増していった。全14戦で開催された「'73チャレンジ・シリーズ」では、8戦において金網デスマッチが開催され、中でも番組収録が行われた会場では、開幕戦の大田区体育館大会(2月24日開催、翌25日・3月4日に録画中継)以外の全会場で開催された(「'73チャレンジ・シリーズ」で開催された金網デスマッチの内、8戦中4戦においてマッドドッグ・バションが登場している)。同年4月1日放送の「'73チャレンジ・シリーズ」三重県四日市市体育館大会の録画中継の2週目(3月7日開催、小林VSホフマンのIWA世界ヘビー級選手権)から日曜18:00 - 18:30に放送時間が25分繰り上がった。同年3月30日にはNETが『NET日本プロレス中継』を打ち切った上で翌週4月6日から新日本プロレス中継に変更して『ワールドプロレスリング』へ再改題され、同年4月18日に開幕した「'73ダイナマイト・シリーズ」中の同年4月20日には日本プロレスが崩壊し(日本プロレス崩壊当日に国際は、青森県八戸市体育館〈テレビ未収録〉で興行を行っていた)、国際プロレスVS日本プロレスの長年のライバル関係は終焉を迎える。 しかし放送時間再短縮後は、番組を取り巻く環境がますます悪化。「'73ダイナマイト・シリーズ」では常連外国人のバションの他にも、エドワード・カーペンティア、イワン・コロフ、ターザン・タイラー、「'73ビッグ・サマー・シリーズ」ではテキサス・アウトローズ(ローデス&ディック・マードック)、「第5回IWAワールド・シリーズ」ではブラックジャック・マリガン、ラーズ・アンダーソン、ムース・ショーラック、特別参加のガニア、「'73ビッグ・ウインター・シリーズ」ではワフー・マクダニエル、ミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)などをそれぞれ招聘したが、同年4月 - 9月の平均視聴率は5%台に低下した。 さらに、日曜18時台へ移動後は、収録を行う地域の縮小が進み、甲信越は1972年6月11日放送の「第4回IWAワールド・シリーズ」新潟市体育館大会(5月4日開催、「第4回IWAワールド・シリーズ」のジョナサンVSラシクの3位決定戦と杉山&木村VSロシモフ&イワン・バイテンのIWA世界タッグ選手権)をもって、北海道は1973年5月6日放送の「'73ダイナマイト・シリーズ」札幌大会(4月25日開催)をもって、大阪府立体育館は同年7月15日・8月12日放送の「'73ビッグ・サマー・シリーズ」(7月9日開催、小林VS木村のIWA世界ヘビー級選手権は7月15日に放送)をもってそれぞれ収録が打ち切られた。 1973年9月23日・30日放送の「第5回IWAワールド・シリーズ」栃木県体育館大会(9月10日開催)をもって、日曜18時台における放送が終了した。
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