旗本の役職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 19:24 UTC 版)
「江戸幕府#旗本役」も参照 江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う武官(番方)、文官(役方、行政・司法・財政を担当)である町奉行・勘定奉行・大目付・目付などの役職に就いた。無役の旗本は3000石以上は寄合、それ以下は小普請組に編入された。 旗本の最高の役職は江戸城留守居である。8代将軍吉宗が御三卿を創設してからは、その家老職も江戸城留守居に準ずる地位とされたが、1000石級の旗本から抜擢されることも珍しくなかった。御三卿は江戸城内に屋敷を持ち、将軍家の家族として取り扱われたため、御三卿の家老は陪臣ではない。 この他、5000石以上の大身旗本は、将軍側衆、御側御用取次、大番頭、書院番頭、小姓組番頭、駿府城代に就任することができた。 幕府が重要都市に置いた遠国奉行は1000石級の旗本から任じられたが、伏見奉行は譜代大名からも任じられた別格のポストであった。東海道から京に入る要所であり、大名と朝廷を近づけないために、参勤交代の途中で伏見より京側に進むことは認められていなかった。また、将軍の行幸があった日光奉行も、他の遠国奉行よりやや格が高かった。猟官運動が盛んに行なわれたのは長崎奉行であり、貿易に絡む賄賂に近い副収入が見込めたことで人気が高かった。長崎奉行となって大きな財産を築いた旗本もいた。 一方、100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行、金奉行、林奉行、普請下奉行、畳奉行、材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行、膳奉行、書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職に就いた。旗本の下位の役職には、御家人が就任することもあった。 広敷の役人、賄頭、勘定吟味改役は、小禄の旗本の中から有能な者が選ばれていた。 江戸時代中期以降になると、軍事・警備部門で御家人から旗本に昇進する例はほとんどなくなった。その一方で、広敷や勘定奉行の下役人となり、旗本に昇進した者が出た。 旗本の資格がない者が旗本になる場合は、布衣以上の役職に就任するか旗本の役職に3代続けて就任することが原則であったが、将軍に謁見が許されれば御目見得の士として直ちに旗本として認められた。 太平の世が続くと、番方と呼ばれる警備や軍事に関する役職は家柄で選ばれる一方で、役方と呼ばれた行政職(文官)は能力主義を加味した人事が行なわれる傾向が出てきた。こうした中で200石以上500石未満の旗本の場合は、老中直属の会計検査役で勘定奉行の次席格でもある勘定吟味役か、幕府収入の4分の1を消費した大奥の庶務責任者として出納の権限や出入り業者の選定権を持った広敷用人となるのが、一応の出世の到達点とされた。一方で実力によって昇進する旗本もおり、役職に釣り合う家禄に加増され、中には大名となる者も現れた。時代が下ると財政難から加増は困難になり、一時的に役料を支給する足高の制も導入された。 なお、番方は小姓組・書院番・大番・新番・小十人組の5つに分類される。これを五番(方)という。 町奉行所附きの与力は馬上が許され、200石(200俵)以上の俸禄を受ける者も少なからずいたが、旗本ではなかった。 旗本の仕組みに大きな変化を見せるのは、開国後の安政3年(1856年)に老中阿部正弘が安政の改革の一環として築地に講武所を開いて、西洋の銃術・砲術を含めた集団戦の訓練を旗本に命じてからである。続く文久の改革によって銃術・砲術を修めた旗本たちの中から、実力主義によって士官が選抜されるなど急速な軍制改革が行なわれるようになった。だが、既に財政的に窮乏状態にあった旗本には、軍役を負担するだけの余力は失われていた。そこで、ついに慶応3年(1867年)9月、旗本に対する軍役が事実上廃止され、知行所からの収益金の半分を軍役金に徴収(年4回の分納)することになった(慶応の改革)。この制度は1回目の納付の途中で大政奉還を迎えてしまい、十分に機能する前に幕府が崩壊することになるが、もしこの制度が機能していれば、軍役を失った旗本の存在は幕府の「士官候補生」・「官僚予備軍」にしか過ぎなくなり、仮に江戸幕府が存続していたとしても旗本の意味合いは大きく変質していたであろう。
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