新師団長と方針の変更
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「第10飛行師団 (日本軍)」の記事における「新師団長と方針の変更」の解説
1945年(昭和20年)3月1日、それまで第10飛行師団長心得であった吉田喜八郎少将は中将進級と同時に第13飛行師団長に異動し、宇都宮教導飛行師団長であった近藤兼利中将が新たな第10飛行師団長に親補された。吉田中将は陸軍大学校を優等卒業の英才であり、1937年(昭和12年)に騎兵科から転科して以降は航空関係の要職を歴任した。第10飛行師団の指揮官としても性能の劣る航空機や要員の練度不十分にもかかわらず相当な成果をあげたが、強烈な積極性と個性のために周囲との関係が良好でない場合もあり、指揮を受ける部隊は命令遂行に疲弊していた。近藤中将は陸軍士官学校の卒業は歩兵科であったが、1925年(大正14年)の航空兵科創設以前より戦闘機操縦者として飛行部隊や飛行学校での教育経験も豊富であった。 新師団長は航空関係の補給および補充が逼迫している状況で本土決戦のための戦力を蓄える必要を考慮し、第10飛行師団の主力による邀撃はB-29爆撃機の本格的来襲時のみに限定する方針をとった。この方針は陸軍中央部の意向と同様のものであるが、本土上空に侵入した敵機に対して日本の戦闘機が出撃しないことは国民感情に大きな影響を及ぼした。B-29は2月以降も夜間に単機または少数機で関東および中部地区に、ほとんど連夜来襲していたのである。 3月に入るとB-29爆撃機による本土攻撃は大都市に対する焼夷弾爆撃が中心になった。3月4日朝、推定約150機のB-29が東京上空に来襲し、雲上から爆弾と多量の焼夷弾を投下した。第10飛行師団は雲量10の天候不良のため出動できず、高射第1師団が電測射撃をするのみであった。 3月9日夕刻、米軍はマリアナ諸島にある5つの飛行場からB-29爆撃機334機(米軍記録)を出撃させた。B-29は3月10日午前0時ごろより東京湾を北上して東京上空に来襲した。この夜は北からの強風のため電波警戒機がほとんど正常に作動せず、陸軍が空襲を確認したのはB-29が京橋区月島付近に焼夷弾攻撃を行ったという情報が午前0時8分に入ってからである。さらにB-29が続々と侵入中との情報で0時15分に空襲警報が発令された。B-29は中高度で単機または数機編隊で東京都東部に侵入し大規模な無差別焼夷弾攻撃(東京大空襲)を行い、投弾後は千葉県銚子市付近から太平洋上に脱出した。日本側では来襲したB-29の総数を約110機と推定した 。 第10飛行師団では近藤師団長が夜間出動可能な全機の出動を命じた。B-29邀撃に急ぎ離陸した戦闘機は、中高度の空戦であるので十分にその性能を発揮することが可能だった。また地上の大火災による炎の明るさで照空灯がなくても敵機を視認できたが、やがで煙霧が上空に漂い攻撃が困難になった。師団では相当の戦果を報告したが、米軍の記録では撃墜されたB-29が14機、損傷は42機であり、日本の陸海軍戦闘機による撃墜はなく、すべて高射砲によるものとしている。 3月16日、防衛総司令部は飛行第4戦隊および飛行第5戦隊(いずれも二式複座戦闘機を使用)をそれぞれ印旛飛行場、調布飛行場に移動させ、第10飛行師団の指揮下に置き、夜間の邀撃戦力を強化した。しかし関東地区にはその後の大規模な敵機来襲はなく、同月17日にはB-29爆撃機により神戸が、18日と19日には艦載機により九州と近畿地区が、19日と25日にはB-29により名古屋がそれぞれ攻撃されたため、飛行第4および第5戦隊は第10飛行師団の指揮下を脱し、もとの指揮下へ復帰した。 同じころ第6航空軍は沖縄などを防衛する天号作戦準備のため3月10日、司令部を福岡に移動していた。これに伴い、第6航空軍の隷下にあった第30戦闘飛行集団が3月20日より防衛総司令部の直轄となり、2月半ばより第6航空軍の指揮下にあった飛行第47戦隊(四式戦闘機使用)飛行第244戦隊(三式戦闘機使用)と、独立飛行第17中隊(一〇〇式司令部偵察機使用)は第30戦闘飛行集団の指揮下に入り、関東に来襲する米海軍機動部隊の攻撃任務にあたった。。 4月2日未明、推定約50機のB-29爆撃機が相模湾方面から本土に侵入し、中島飛行機武蔵工場および立川市周辺を攻撃した。第10飛行師団は邀撃において10機以上撃墜と報告した。4月4日未明には推定約90機のB-29が京浜地区を低高度で攻撃したが、各飛行場は濃霧に包まれていたために第10飛行師団は出動できなかった。 4月7日午前、B-29爆撃機90機のほかP-51戦闘機30機(どちらも機数は日本側推定)が東京上空に来襲し、江東地区を攻撃した。B-29が戦闘機を伴って攻撃するのは、これが初めてであった。前月に硫黄島を奪取した米軍は同島の飛行場を整備し、航続距離の短い戦闘機の基地としたのである。 4月13日夜、推定約170機のB-29爆撃機が東京北西部を攻撃した。第10飛行師団は高射第1師団と合わせて撃墜38機と戦果を報告したる。4月15日夜、約200機と推定されるB-29爆撃機が単機または少数機の編隊を組み中高度で波状的に京浜地区に侵入し、大森区、蒲田区、および川崎市方面を焼夷弾攻撃した。敵機が高々度でなかったために第10飛行師団は十分に活躍することができ、高射砲部隊および海軍と合わせた戦果は敵機の撃墜70機、撃破50機以上と報じられている。
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