新帝擁立の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:40 UTC 版)
呂氏一族を誅滅した朝廷の大臣一同は、少帝およびその兄弟たちは劉氏の血を引く者ではなく、呂雉がどこかから連れてきた由来不明の私生児であるとして、新たに劉氏の者の中から皇帝を擁立する事を決定した。協議の過程で考慮された皇帝候補者は、斉王劉襄(20余歳)・淮南王劉長(19歳)・代王劉恒(24歳)の3名であった。 最初に候補に挙がったのは、劉邦の庶長子であった劉肥の子の劉襄であった。だが劉襄の母の出身であった駟一族には駟鈞なる人物がおり、この人物が悪人とされていた事から、駟氏が呂氏同様に外戚として権勢を振るう事態が懸念された事で、擁立は見送られた。次に劉邦の七男であった淮南王劉長の擁立も検討されたが、これも同様に母方の一族の問題を理由に見送られた。最後に候補に挙がったのは、劉邦の四男の代王劉恒であった。劉恒は「仁孝寬厚」とその人柄を評されており、また劉恒の母の薄姫も慎み深く善良であると知られていたため、彼が新たな皇帝に選ばれる事となった。 劉恒を皇帝の候補に定めた後、陳平・周勃らは、直ちに使者を派遣して、劉恒を召喚した。劉恒は、この件について、左右大臣と郎中令の張武(中国語版)らの意見を求めた。張武は、これを詐欺であると考えていたが、中尉の宋昌は、詐欺ではないと考えていた。劉恒は、この件について、母にも報告して相談したが、依然として躊躇して決することができなかった。占いを行った後、劉恒は、母方の叔父の薄昭を長安に派遣して、協議した。紀元前180年11月14日、この日は、高后8年9月29日であり、漢初には、秦の制度を採用していたため、10月は、新年であった。仮に、一日遅く即位することになれば、高后8年を(翌年に)持ち越す方法がなかったため、劉恒は、6頭の馬車に乗って長安に駆け、その後、皇位を継承し、夜、未央宮に入って聴政した。劉興居と、楚漢戦争の際に劉盈(恵帝)を救った太僕の夏侯嬰は、自ら「宮殿を清める」として、少帝弘を皇宮から迎えて、少府に安置した。その夜、少帝弘と、恵帝の他の3人の子は、全て大臣らによって殺害された。。
※この「新帝擁立の動き」の解説は、「呂氏の乱」の解説の一部です。
「新帝擁立の動き」を含む「呂氏の乱」の記事については、「呂氏の乱」の概要を参照ください。
- 新帝擁立の動きのページへのリンク