新布石時代とは? わかりやすく解説

新布石時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:40 UTC 版)

呉清源」の記事における「新布石時代」の解説

この後、呉は健康上の理由大手合1年間休場するが、その他に1928年から29年にかけての「棋道」や時事新報主催対局があり、戦績13勝7敗2ジゴ。その中には秀哉との三子局もあった(呉11目勝)。1929年から30年にかけての読売新聞特選碁では10人抜きする。1930年から大手合出場3年間に29勝3敗という成績挙げる1931年には中国から妹達呼び寄せて暮らすようになり、またこの頃木谷實とともに西園寺公毅の支援受けた1932年時事碁戦では、18抜きを果たす。 1933年に五段に昇段し時事新報主催で同じ五段で新進棋士として注目浴びていた木谷實との十番碁を行うが、木谷六段昇段中止となる。この頃呉は、当時小目中心布石主流の中で、星や三々試みるようになる。十番碁5局目打ち掛け後の夏、木谷長野県地獄谷温泉に呉を誘い、そこで木谷考え中央重視布石研究し、呉も関心を持つ1933年秋の大手合ではこれを実戦打ち、呉1等木谷2等となり、二人打ち出した布石法は「新布石」と呼ばれ話題になる。翌1934年には、平凡社から安永一ライターにして、木谷、呉の共著で「囲碁革命新布石法」を出版し10万部を売るベストセラーとなった。 また1933年には、読売新聞2万記念事業一つとして主催された「日本囲碁選手権手合トーナメントで、決勝橋本宇太郎勝って優勝し10月本因坊秀哉との記念碁を打つ。当時五段であった呉だが特に先番の手合割となり、1手目当時本因坊家の鬼門呼ばれていた三々、3手目星、5手目天元、という布石打ち大反響呼び起こす持時間双方24時間で、その後4か月間をかけて打ち掛け13回の後、翌年1月終局して秀哉の2目勝ちとなった1935年天津で、次兄の呉炎の紹介新聞社「庸報」の社長に会い紅卍会入信修行の後に帰国する1936年には日本帰化正式名を呉泉とするが、呼び慣れた名がいいというファン要望1940年にから雅号として呉清源戻した。この1936年結核との診断を受け、長野県富士見高原診療所1年間療養する1938年ごろから紅卍会日本支部活動にかかわる。

※この「新布石時代」の解説は、「呉清源」の解説の一部です。
「新布石時代」を含む「呉清源」の記事については、「呉清源」の概要を参照ください。

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