新市街建設の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 15:03 UTC 版)
「エディンバラ新市街」の記事における「新市街建設の準備」の解説
新市街を建設するという決定は、旧市街の城壁内の人口が飽和状態になったあとに、町の長老たちによって下された。啓蒙主義はエディンバラにも到達し、町に住んでいた近代的な知識人たちにとって、時代遅れの町並みは不釣合いなものになっていた。市長(Lord Provost)であったジョージ・ドラモンド(George Drummond)は、勅許自治都市(Royal Burgh)の境界をノア・ロックの北を取り囲む形で拡張することに成功した。ノア・ロックは都市のすぐ北の渓谷を占めていたひどく汚れていた湖のことである。ノア・ロックの排水作業は実行に移されたものの、1817年までは完了しなかった。 新しい土地に渡るためのポイントが建設され、1772年にはノース・ブリッジができ、そして新市街の建設中に掘り返された残土置き場としてイースタン・マウンドもできた。今日ではザ・マウンド(The Mound)として知られているが、それが現在の姿になったのは1830年代のことだった。 新市街が発展してくると、富裕層は狭苦しい地区の窮屈な住居から、新市街の広い街路沿いのジョージ朝様式の大邸宅へと移り住むようになった。しかし、貧民層は旧市街にとどまった。
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