新市歌制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 10:21 UTC 版)
1920年(大正9年)、第6代大阪市長の池上四郎は3代目市庁舎の落成記念事業として新規に市歌の制定を提唱した。大阪毎日では9月1日付紙面で大阪市の懸賞募集開始を報じ、市歌制定の意義について「大阪には未だ愛市の念を養うべき何等の歌もないので、今回此企てをしたのである」とする教育部長の談話を掲載した。この時の審査委員には、17年前に朝日の「大阪市の歌」でも審査に加わっていた森鴎外も幸田露伴らと共に名を連ねている。 17年前の「大阪市の歌」と異なり市の主導で作成された「大阪市歌」(作詞・堀沢周安、作曲・中田章)は翌1921年(大正10年)4月に制定され、朝日・毎日の両紙とも4月10日付の紙面で大きく報じたが、前年の秋に教育部長の談話でかつて市へ寄贈した「大阪市の歌」の存在を否定された朝日の論調は辛辣を極め、中之島公会堂で行われた「大阪市歌」発表演奏会の様子を報じた4月14日付の記事では 歌詞は今迄の約束に囚われた所謂型にはまった駄作、(中略)歌曲は小学校児童などに歌わすには適当なもの — 大阪朝日新聞、1921年4月14日付 として、17年前に同紙が寄贈した「大阪市の歌」のように市民から愛謡されるか疑わしいと酷評した。しかし「高津の宮の昔より…」で始まる1921年の大阪市歌はこの時の酷評とは正反対に戦後も永く市民の間で愛唱され続け、2021年(令和3年)に制定100周年を迎えている。
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