新市場を切り開くホンダ・追随するヤマハ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:06 UTC 版)
「HY戦争」の記事における「新市場を切り開くホンダ・追随するヤマハ」の解説
1970年代前半、オートバイの日本国内販売台数は年間110万台前後で伸び悩み、ほぼ飽和したと考えられていたスーパーカブで切り開いた商用車を除けば、趣味的要素が強いオートバイはオイルショックの逆風も手伝い、その将来性へ否定的観測が流れていた。ホンダは新たな市場として女性層に焦点を絞り、1974年には本田技術研究所の二輪開発部隊を朝霞研究所へ集約。1976年には新しいコンセプトのファミリーバイク「ロードパル」を発表した。辣腕の営業所長、網野俊賢らも開発に参画した同機種は、「日本の街角を変える」というコンセプトの下、簡単な操作と求めやすい価格を実現するために、あえて自転車が開発のベースに据えられた。取得しやすい原付免許で乗れることや安定成長期に入った当時の世相などを背景に、仕事や社交へと行動範囲を広げ始めた主婦層にはうってつけの交通手段として市場に認知されていく。また、ローマ市街を走るソフィア・ローレンを起用したCMも手伝い、爆発的なヒットを記録した。 競合するヤマハは、1977年に女性向けの機能を一段掘り下げ、スカート姿でも両足を揃えて乗車できるステップスルー式の「パッソル」を発表。CMでは八千草薫が手軽さをアピールした。1978年には鈴木自動車工業(現:スズキ)も参入して市場をさらに活性化した。 これら新しいカテゴリーのオートバイを利用したのは主に主婦層だったが、副次的に中年男性層にもオートバイブームを巻き起こしていく。危険な乗り物・暴走族の乗り物というイメージが付きまとうオートバイへの距離を、お洒落に乗りこなす妻の姿や、大型自動二輪車免許交付において中年層に対しては比較的簡単に認められた点などが後押しして縮めた。こうしてオートバイ生産は活況を呈し、1976年には130万台、1977年には160万台、1978年には198万台と、ファミリーバイクを中心に順調な伸びを示した。 ホンダ・ロードパル ロードパルのCMキャラクター、ソフィア・ローレン ヤマハ・パッソル
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