協議の過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:42 UTC 版)
ヤルタ会談の協定に基づき、1945年6月26日から戦犯を裁く国際軍事裁判所開設のための協議が、アメリカ合衆国から最高裁判所判事ロバート・ジャクソン、イギリスから法務長官サー・デイビット・ファイフ、フランスから大審院判事ロベール・ファルコ、ソビエト連邦から最高裁判所副長官ニキチェンコ少将の各国代表によって開始された。8月8日まで本会議だけで16回開催されたが、協議に参加した四カ国の法体系の違いから草案の一語ごとに論争がくり返されるほど、会議の進行は困難を極めた。中でも戦争犯罪の定義については大きく意見が対立し、特にアメリカ合衆国とソビエト連邦の2国間の意見の相違が顕著だった。 ソビエト連邦の草案は、あくまでドイツの違法行為を指摘したもので、ドイツ戦犯を裁くためにのみ国際軍事裁判所を設置するという意図を示していた。ニキチェンコは「我々の今の仕事は、いかなる時、いかなる事情にもあてはまる法典を起草しようとするものではない」と述べている。 一方アメリカ側は、ドイツの戦争犯罪を対象にはしていたが、戦争そのものを犯罪とする考えを示していた。ジャクソンは、「侵略戦争の開始は犯罪であり、いかなる政治的または経済的事情もこれを正当化できない」としたルーズベルト大統領の言葉を引用し、「世界の平和に対して行う、いかなる攻撃も、国際的犯罪とみなすということを、ドイツ人たちおよびその他の何人にも知らせたいのである」と述べている。 協議の結果、戦争は道義的に非難されても法律的には許されると考えられていた時代に、終止符をうつものとして国際軍事裁判所の憲章は定められるべきであり、それ故に戦争犯罪の定義を、ある特定の国の犯した行為によってのみ定めるべきでは無いとするジャクソン判事の意見が大幅に採用され、ニュルンベルク裁判ならびに極東国際軍事裁判(東京裁判)で、以下のように戦争犯罪が定義された。
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