協議の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:06 UTC 版)
ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」 と東京裁判の問題点を指摘した。 オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらない日本側でよく言われる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたとされるが、大陸法系の考えが強い彼は他の英米法系の裁判官と考えが異なっており、パール判事の反対意見を書くという考えに影響を受け、自身も反対意見として表明することにしたといわれる(ただし、彼自身の判決中の考えはパール判事の考えとは全く異なる)。「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。ただし、レーリンク自身、後に東京裁判当時は国際法に関してはまだ素人同然だった事実を認めたうえで、当時ユトレヒト大学でオランダ領東インドの刑法について教えていたので、アジアの事を多少は知っているだろう、といった理由だけで選ばれた、と述懐している。
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