協議の家の戦闘のその後: 大襲撃とプラム・クリーク
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「テキサスのインディアン戦争」の記事における「協議の家の戦闘のその後: 大襲撃とプラム・クリーク」の解説
協議の家の戦闘で33人のコマンチェ族酋長が殺されたことへの報復として、残っていた捕虜のうち3人を除く者達が拷問を受けながら緩り処刑された。残った3人は既に部族の中に縁組されていた。バッファロー・ハンプは更なる報復を望み、その戦士達を集め、コマンチェ族のあらゆる隊、隊の中のあらゆる支族、カイオワ族およびカイオワ・アパッチ族に伝令が送られた。およそ500人になった戦士たちと他に安らぎを与え仕事を分かつ女性子供400人が集まり、バッファロー・ハンプがその大戦闘部隊を率いてエドワーズ台地から海岸まで行く先々で襲撃を行った。ビクトリアと当時テキサスでは第2の港だったリンビルを燃やして略奪し、コマンチェ族は数千の馬やロバを集め、リンビルの倉庫から多くの物資を持ち出した。リンビルの人々は慎重にメキシコ湾岸まで逃亡し、そこでコマンチェ族が略奪し町を燃やすのを絶望的に眺めていた。 ロックハートに近いプラム・クリークでは、民兵隊が、軍事歴史家が通常の状況では決して出来なかっただろうと言うこと、すなわち歴史上でも最も素晴らしい軽騎兵隊と考えられるコマンチェ族を追い詰めた。マシュー・コールドウェルとエド・バールソンが指揮する数百の民兵隊にレンジャー中隊全てを加えたものがコマンチェ族の戦闘隊と走りながらの大銃撃戦を演じ、コマンチェ族は戦利品を守ろうとし、民兵隊はインディアンを全滅させようとした。皮肉なことに再度軍事歴史家に拠れば、同じこと、つまりコマンチェ族を脆弱にしていた貪欲さが彼らを救った。民兵隊は金塊で数十万ドルを積んだロバを取り戻して、それらの戦利品を分けることに忙殺され、コマンチェ族のことは忘れて家に戻った。民兵隊は80人の戦士を殺したと報告したが、1ダースの遺体しか発見されなかった。両軍とも満足して戻った。コマンチェ族は3,000頭の盗んだ馬と多くの戦利品を抱えて戻り、民兵隊は金塊数十万ドルだった。 ラマーが大統領である残り期間は、バッファロー・ハンプがテキサス人に対する戦争を継続し、ラマーはそのレンジャーズや民兵隊を使って平原部族を排除する為の会戦を望む中で、消耗させる襲撃と報復の試みのために費やされた。しかし、コマンチェ族はプラム・クリークから教訓を得て、民兵隊が大砲や大量のライフル銃を使えるような集中を行うことは二度と無かった。ラマーは1840年の1年間だけでコマンチェ族に対して250万ドルという信じられないような予算を消化したが、これはラマーの任期2年間の共和国歳入総額を越えていた。
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