協議の軍隊
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バーゴインは無条件降伏の道を選ぶよりも、兵士が武器を置き、北アメリカには戻ってこないという誓約のもとにヨーロッパに帰還できるという条項を含む「協議」に同意していた。バーゴインはこの点に強く固執し、それが同意されなければ、ケベックに戻りながらも戦おうとすることすら示唆していた。その後間もなく大陸会議はジョージ・ワシントンの勧めでこの取り決めを覆し、兵士達をマサチューセッツとバージニアで拘禁した。兵士達の中にはそこで虐待される者もいた。このことはイギリス軍が大陸軍捕虜に対してお粗末な待遇を行っていたことの報復とも見られた。 サラトガの後、バーゴインに対するイギリスの憤慨は最高潮に達した。バーゴインは大陸軍将軍の釈放と引き換えに直ぐに釈放されて本国に戻り、その行為の釈明のために軍法会議を要求したが容れられることはなかった。バーゴインはその連隊指揮と1769年から携わっていたスコットランドのウィリアム砦統治任務を取り上げられた。サラトガの敗戦後、フランスはアメリカ合衆国を承認し、1778年2月6日にはアメリカ独立戦争に参戦して、この戦争を地球規模のものに変えさせた。 バーゴインは当時この敗北の責任を広く問われていたが、歴史家達はその後の年月を経て、植民地担当大臣だったジャーメイン卿の責任を問う方向に見解が変わってきた。ジャーメインは作戦の戦略全体を監督しており、ハウ将軍にバーゴインの侵略を支援するよう命令するのを怠り、その代わりにハウがフィラデルフィアを攻撃する独自の作戦をさせるがままにしていた、というものである。
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協議の軍隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
協議の条件の下で、バーゴイン軍はボストンまで行軍し、そこからはその構成員が正式に交換されるまでこの戦争に参加しないという条件で、イギリス船でイングランドまで送り返されることになっていた。大陸会議は将来の戦争に関する合意条件が守られるように、バーゴインに軍隊構成員のリストを提出するよう要求した。バーゴインがこれを拒むと、大陸会議は協議の条件を履行しないことを決め、軍隊は捕虜のまま留まった。この軍隊はニューイングランド中の疎らな宿営地に暫くの間留められた。個々の士官は交換されたが、「協議の軍隊」の大半は最終的に南のバージニアまで移動し、数年間捕虜のままとなった。この捕虜となっている間に、数多い者達(最終年だけで1,300名以上)が逃亡し、実質的に脱走兵となってアメリカ合衆国国内に定着した。
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