教育者・日本で最初の女学校を京都に創設
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「野辺地尚義」の記事における「教育者・日本で最初の女学校を京都に創設」の解説
明治維新後は京都府に雇われ、京都府員を命ぜられる。京都府立 英語・仏語・独語、各々の語学校の監督を委ねられた。明治5年(1872年)4月14日上京し、土手町丸太町南の旧九条邸に、日本で最初の″公立女学校″を同府に起こし、校名を「新栄学院 女紅場(にょこうば)」と称した。東北出身の武士・野辺地が女子ばかりの学校の校長に選ばれたのは英語にあった。京都の当時の知事は比較的開明的な人であり、この学校では文明開化に沿って、いち早く英語を教科に取り入れた。彼に教師兼校長として白羽の矢が立ったのは当然の成り行きだった。10年間校長を務めたが、新島襄(同志社大学創設者)の妻新島八重も教師として参画していた。 明治5年(1872年)5月に福澤諭吉が社友・早矢仕有的とともに学校を訪れている。印象を「京都学校の記」に記している。「英国の教師夫妻を雇い、夫は男子を集めて英語を授け、夫人は女児を預かりて、英語の外に兼ねて又、、縫針の芸を教えり、外国の婦人は一人なれども府下の婦人にて字を知り、女工に通ずる者も七、八名ありて、その教授を助けり。この序に出でて英語を学び、女工を稽古する女児百三十人あまり。華士族の子もあり商工平民の娘もあり、各々貧富に従って紅粉を装い、衣装を着け、その装い潔くして華ならず、粗にして汚れず、言語は嬌で、容貌は温和、物言わざるも臆する気なく、笑わざるも悦ぶ色あり、花の如く、玉の如く、愛すべく、貴ぶべく、真に児女子の風を備えている。この学校は中学の内にて最も新なるものなれば、今日の有様にて生徒の学童は未だ上達せしにはあらざれども、その温和・柔順の天華をもって朝夕、英国の教師に観灸し、その学業を伝習し、旧習を脱して、独立自主の気風に潤することあらば、数年の後、全国無量の幸福を致す事、今より期して待つべきなり」と述べている。「日本国内において事物の順序を弁じ、一身の徳を修め、家族の間を睦まじくせしむる者もこれ子女ならん。世の風俗を美にして政府の法を行われ易からしむる者もこれ子女ならん。工を勤め、商を勧め、世間一般の富を致すものも、これ子女ならん。平民の智徳を開き、これをして公に民事を議するの権を得せしむる者も、これ子女ならん。自ら労して、自ら食い、一身一家の独立を謀り、遂に一国を独立せしむる者も、これ女子ならん。広く外国と交わりを結び、約束に信を失せず貿易に利を失わしめざる者も、この子女ならん。概して、これを言えば、文明開化の名を実にし、我が日本国をして重からんしめんには、これ子女に依頼せずにして他に求むべきの道あらざるなり」と福澤のモットーである「独立自尊」とも呼応し子女教育の重要性を強く感じたようであった。 明治10年(1877年)2月1日、明治天皇はこの学校を訪問する。2月7日発行の東京日日新聞にはこうある。「この日は女性徒二百八十九名は吾れ劣らじと美麗を尽くして早朝より昇校し、今や遅しと時刻の移るを待ち受け奉りけるに、ー中略ー 英国教師ウエットン氏進んで祝辞を読み奉る。次に女教師エリザベスも同じく祝辞を奉読するを助教梅田ぬい傍らよりこれを訳し奉る。続いて和田おかよ等五名は語学の事を講ず。二月九日には今度は皇太后、皇后が訪れる。二月十六日発行の郵便報知新聞によると「皇太后・皇后の両宮様には、去る九日九時州分御出門にて女紅場へ行啓。女性徒三百名ばかり今日を晴れと粧いて門外に奉迎したり。英学教場へ臨まれし時、英語教師アルザベス、オーン、ウエットン氏が祝辞を捧げしを、生徒和田かな女訳奉し、裁縫場御覧の時、生徒、香を焚き、薄茶を点じた。-後略ー」このように内外から注目された学校の校長だった尚義だったが、彼自身は表に出ようとはせず、ひたすら教育の充実に力を注いでいる。京都府立英語学校・独語学校は現在京都府立洛北高校になっている。明治3年に日本最古の旧制中学校として創立された京都一中を前身とする公立高等学校である。戦前・戦後にかけ京都大学にトップの進学者を送り出していた。ノベール賞・物理学者受賞者 湯川秀樹、朝永振一郎が卒業生である。新栄学院 女紅場はその後京都府立第一高女となり、現在は京都府立鴨沂(おうき)高等学校になっている。校訓は「幸福になりうる社会をめざして、事実に基づいて真理を追究し、それに従って実践しようとする人間をつくる」である。過去には京都大学進学者第一位であった。卒業生には山本富士子、団令子、加茂さくら、山崎正和(文化功労者)、田宮二郎、塚本能交(ワコール現代表取締役)等がいる。森光子(文化勲章、国民栄誉賞受賞)、沢田研二は中退している。
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