教育と旅行とは? わかりやすく解説

教育と旅行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 08:21 UTC 版)

ヤン・コハノフスキ」の記事における「教育と旅行」の解説

ヤン初等教育に関する情報残存していない。このテーマについて最初言及なされるのは1544年である。彼の姓名ヤギェウォ大学クラクフ)の新入生名簿署名されている(ヤン当時おそらく14歳であった)。研究者推測するに、遅くとも1547年には学芸学部学位を得ることなし離れている。学業やめよう決心したことには2つ原因考えられる1つ伝染病蔓延による1547年6月12日講義延期、そしてもう1つ父親健康状態まつわる悪い知らせ上述通り父はついにこの年没することになる。日付定かではないが、4月18日から10月14日までの間であろう推測される)によるものである。 1547年から1550年の間どこかドイツの大学学んでいたか、大貴族邸宅一つ身を寄せていたようである。1551年から1552年にかけて、ケーニヒスベルク現在のカリーニングラードポーランド語名クルレヴィエツ)のアルベルトゥス大学学んだ小セネカの「悲劇集」の版本に2箇所書き込みがあったことが、将来詩人となるコハノフスキがここにいたこと唯一の証拠である。彼の最初の手書き作品始め位置し、初の詩人として試作ラテン語四行詩)であり、友人スタニスワフ・グジェプスキ(後のヤギェウォ大学教授幾何学教科書書いたことで知られる)への献呈役割果たしている。コハノフスキはイニシャル「I.K.」と署名し贈り先には詩の下に1552年4月9日記している。2箇所目の書き込みは「悲劇集」の版本最後にあり、その書き込み略語暗号を解くのは容易ではないが、おそらくコハノフスキとグジェプスキの間で了解得られる符牒であろう版本ワルシャワ国民図書館にある。ラテン語での記念献呈文は友人との別れの言葉イタリアへの旅行の予告であった1552年将来詩人パドヴァ(コハノフスキの名の載った学生名簿残存している)にたどりついた。最初の頃はパドヴァ大学学芸学部で(1554年7月にはポーランド大学合同相談役となり、独立論争についてドイツ貧し学生たちと話し合っている)それは1555年まで続いたその頃コハノフスキは学業中断し、ヤン・クシシュトフ・タルノフスキ(シュラフタ)と友人ミコワイ・ミェレツキ(シュラフタ、後の軍人政治家)を伴ってローマナポリ旅行に出かけ、次いでポーランド帰還した。この学業中断理由としては、コハノフスキに財政的な問題生じメセナ探し求める必要が生じたことがある1555年から1556年にかけて再びケーニヒスベルクプロイセン公アルブレヒト・ホーエンツォレルンの屋敷滞在したアルブレヒトヤギェウォ家系統人間であり、母がポーランドジグムント1世の娘であった縁もあり、ポーランド詩人メセナであったようである。また彼自身も自ら総長として率いていたドイツ騎士団解散しルター派改宗たうえで1525年伯父ジグムント1世臣従プロイセン公国宗教的に寛容であったポーランド王国臣下でもあった。保守的な屋敷会計係態度のせいで1555年にはコハノフスキに報酬支払われることはなかったが、1556年にはすでに50グジヴィエン(四半期に12.5グジヴィエン、1グジヴィエンとは当時単位で半ポンドであり、現在でいうおよそ200gである)を受け取っていた。庇護者宛てた詩人の手紙もまた残っている。その中で1556年4月6日付けの手紙では、アルブレヒトに、眼病進行理由イタリア旅立ち、そこで大学戻りたい願っていると涙ながらに打ち明けている。プロイセン公4月15日付け返信でこれに同意し詩人餞別としてさらに50グジヴィエン贈った旅行費用追加援助を得るために、コハノフスキはケーニヒスベルクから実家赴いた1556年7月16日イタリア旅行からすで帰還した彼はラドム郡で、遠縁のミコワイ・コハノフスキから両親土地担保合計70ポーランド・フローレンを借りたことを宣言している。続く1557年3月11日には弟のピョトルからの100ハンガリー・ドゥカーテンの借用証書裁判所提出している。 イタリア旅行へはピョトル・クウォチョフスキ(後のザヴィホスト城主)と同伴で出かけた。詩人はおそらくパドヴァ近郊にあるアーバノ・テルメ温泉の出る保養地として知られる)を訪れていたとみられるイタリア滞在1557年2月まで続いた。コハノフスキは母の死知らせ受けて実家の方へ戻った詩人最後イタリア旅行1558年の冬のことであったこの年終わり頃にフランスへ出立した。この国へ旅行したという唯一の残存し証拠詩人の手紙の形式書かれエレジーである。読者はおそらくこれによって、詩人マルセイユパリにいたこと、この国の南西部にあるアキテーヌ訪れたことを知ることができる。またロワール川ローヌ川セーヌ川見ている。コハノフスキのフランス旅行ガイドしたのはおそらくフラマン人文主義者カレル・ウテンホーフェ(Karel Utenhove、息子の方)であった1559年5月をもってポーランド戻り永住した。

※この「教育と旅行」の解説は、「ヤン・コハノフスキ」の解説の一部です。
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