教育と研究の拡充
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 00:55 UTC 版)
「名古屋高等商業学校」の記事における「教育と研究の拡充」の解説
設立時の教育方針は、渡邉校長の前任校である小樽高商での教育方針がかなりの程度踏襲され、英語を始めとする外国語教育や、商業実践(模擬会社による実習)・商品実験(製造や品質鑑定などの実験)などの実践的な科目に重点が置かれ、多くの外国人講師が任用されたほか、1922年4月には「商品実験室」が設置された。さらに実例に則して学生に自由討論を行わせる「ケースメソッド教授法」や商品の生産・流通に関わる人間の心理を研究する「商工心理学」が名古屋高商独自の教育法・学科目として導入された。 教育と並行して研究活動も盛んになった。1923年には研究団体として発足した「商業経済学会」は機関誌『商業経済論叢』を創刊、1926年に研究施設として設置された「産業調査室」は翌1927年2月に機関誌『調査報告』を創刊、さらに1932年には研究団体「商業美術研究会」が『商業美術論集』を創刊した。特に産業調査室は、1922年教授として着任した赤松要が渡邉校長に提言して設置されたもので、赤松を主任として経営調査、景気循環の実証研究などが行われ、1933年には約40年間にわたり日本の全生産物を網羅した生産指数を発表し、「名高商生産指数」と称された。以上のように名高商では、のちに赤松が「総合大学として偉容を有する」と称賛したほどの、旧制専門学校のレベルを超えた高度な研究が行われていたが、「専門学校は大学と対等の最高学府」とする理念を堅持していた渡邊校長が大学昇格に消極的であったため、大学昇格運動が表面化することはなかった。 生徒(本科生)は愛知県出身者が圧倒的に多く、近隣の岐阜県・三重県出身者が続き、卒業生は6割程度が会社・商店などの企業に就職、10%程度が東京商科大学・神戸商業大学などに進学した(1936年)。課外活動としてスポーツも盛んであり、野球部は1931年の甲子園大会で全国制覇(中京商業の間違いでは?)、水泳部は1930年の全国高商連盟大会で5種目の新記録を出して総合得点で優勝、1932年には部員の清川正二がロサンゼルス五輪の100m背泳で金メダルを獲得した。
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