盧毓とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 盧毓の意味・解説 

盧毓

(廬毓 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 17:45 UTC 版)

盧毓

司空・容城侯
出生 光和6年(183年[1]
幽州涿郡涿県
死去 甘露2年(257年
拼音 Chéng Hóu
子家[2]
諡号 成侯
主君 曹操曹丕曹叡曹芳曹髦
テンプレートを表示

盧 毓(ろ いく)は、中国後漢末期、及び三国時代の政治家。子家[2]本貫幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)。後漢末に北中郎将などを務めた盧植の四男。


経歴

10歳の時に父の盧植を失う。また当時の幽州は戦乱に遭い、2人の兄も戦死したが、盧毓は彼らの妻や子を養い、学問と品行によって称えられた。

建安16年(211年[3]曹丕が五官将になると招聘されて門下賊曹となり、さらに崔琰の推挙で冀州主簿の官に就いた。崔琰からは「盧毓は聡明で道理に通じ、百度叩かれても潰えることはない。に上る才の持ち主だ」と評価された[4]。当時、逃亡兵に対する取り締まりはその妻子までが厳罰に処されるほど厳しく、ある逃亡兵の妻は婚姻して数日経ったばかりで、夫とは顔も合わせていない間柄だったが、彼女にも死刑が求刑された。これに対し盧毓は『詩経』などの経典を引いて死刑に反対した。曹操はその主張を高く評価し、このことから盧毓は丞相法曹議令史、次いで西曹議令史に転任した。

黄初元年(220年[3]、曹丕が帝位に上ると魏の黄門侍郎となり、次いで済陰国相梁郡太守譙郡太守を歴任した。曹丕は譙が故郷であることからこの地に民を移住させ、屯田を行わせたが、その土地が痩せているために民は窮困した。これに対し盧毓は、民を沃衍[5]な梁の地に再度移住させることを上表した。曹丕はこの上表こそ受け入れたものの心中では盧毓を恨み、睢陽の典農校尉へと左遷した。その官にあっても盧毓は民に利益をもたらすことに腐心し、後にまた安平太守、広平太守を歴任した。

曹叡の時代に当たる青龍2年(234年)、入朝して侍中となる。司徒が欠員となった時、盧毓は処士[6]管寧を推挙したが、曹叡からは退けられ、次の候補を下問された。盧毓は「敦篤至行なるは韓曁、亮直清方なるは崔林、貞固純粹なるは常林です」と答え、韓曁が起用された。

盧毓は人を推挙するに当たってまず性行を問題とし、その後で才能に言及した。李豊からこのことについて尋ねられると、それに答えて曰く。「才は善を成すためのもので、大才は大善を、小才は小善を成します。しかし才があると称揚しても善を成せないのなら、その才は役に立たないということです」と。李豊らはこの言に感服した。侍中として在職3年の間に論争を起こすことも多かったが、曹叡からはその忠誠を高く評価され、吏部尚書への栄転に当たっては盧毓自身で後任を選ぶことを求められた。

曹芳の時代に曹爽が実権を握ると、その政権下では排斥される。正始10年(249年[7]司馬懿のクーデター(高平陵の変)によって曹爽らが逮捕されると、彼らの裁判を担当。以降は司馬氏の政権下で復権し、官吏選抜などを担当した。

正元元年(254年[8]曹髦が即位すると大梁郷侯に進爵し、一子が亭侯に封じられた。正元2年(255年[8]毌丘倹らが乱を起こす(毌丘倹・文欽の乱)と大将軍司馬師が出征したが、盧毓は後事を取りしきり、侍中を加官された。その後は病を得て官位を辞退したが許されず、甘露元年(256年[8]には司空・容城侯に昇進し、領邑2300戸を得た。甘露2年(257年)に死去。成侯と諡され、孫の盧藩が跡を継いだ。

新唐書』表第十三上 宰相世系三上によると、息子は盧欽・盧簡・盧珽の3人。盧欽は魏末から西晋の時代に名を馳せ、『晋書』に立伝されている。娘は華廙[9]の妻で、重病にかかった時に管輅の占いによって救われたことが伝わる[10]

出典

脚注

  1. ^ 父の盧植の死去が初平3年(192年)で、当時の盧毓が10歳であったことに基づく。
  2. ^ a b 『新唐書』表第十三上 宰相世系三上では子象とする。s:zh:新唐書/卷073上#盧
  3. ^ a b 『三国志』魏書 文帝紀 s:zh:三國志/卷02
  4. ^ 『三国志』魏書 崔琰伝 s:zh:三國志/卷12#崔琰
  5. ^ 平坦でゆたかな地。沃衍(よくえん)とは? 意味や使い方 - コトバンク 2025-07-20閲覧
  6. ^ 民間にあって、仕官しない人。処士(ショシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク 2025-07-20閲覧
  7. ^ 『三国志』魏書 斉王紀 s:zh:三國志/卷04#齊王
  8. ^ a b c 『三国志』魏書 高貴郷公紀 s:zh:三國志/卷04#高貴鄉公
  9. ^ 華暠とも記す。華表の子、華歆の孫。
  10. ^ 『三国志』魏書 管輅伝、及び『晋書』華表伝 s:zh:三國志/卷29#管輅 s:zh:晉書/卷044#子廙



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「盧毓」の関連用語

盧毓のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



盧毓のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの盧毓 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS