崎門流と前期水戸学とは? わかりやすく解説

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崎門流と前期水戸学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)

国体」の記事における「崎門流と前期水戸学」の解説

山崎闇斎(1619-1682)は、僧侶をやめて朱子学入り、さらに神道修めた皇国のために万丈気を吐いたという。闇斎に関して先哲叢談載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎弟子たち向かって問題出した孔子孟子日本攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子誰も答えられない闇斎答えは、孔孟戦ってこれを捕虜とし、もって国恩報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎人となりをうまく表した逸話であり、闇斎学問はここに立脚する闇斎学統には儒学神道があるが、どちらも国体尊厳高唱した点において同じである。 山崎闇斎創始した垂加神道関係して日本神国たる所以皇統神聖な所以述べて国体尊厳説く者は少なくない。たとえば高屋近文神道啓蒙』、大山為起唯一論』、伴部安祟『神道問答一名和漢問答』、若林強斎神道大意一巻尾張藩主徳川義直神祇宝典自序などがある。 浅見絅斎(1652-1712)は、山崎闇斎門下著名人であり、『靖献遺言』を著し勤王鼓吹した。「関東の地を踏まず諸侯仕えず」と誓い、「もし時を得義兵挙げて王室をたすくべし」ということ同書著したという。これをみずから講じた靖献遺言講義』では、当時儒者いたずらに唐土尊び自国卑しむのを攻撃し皇国尊ぶべき所以説いたまた、ある人が天皇拝謁した聞いて皇統無窮讃して天照大神の御血脈、今に絶えず継がせられ候えば、実に人間の種にてはこれなく候、神明拝せらるる如く思わるる由、さこそ有るべきことに候、我が国万国優れて自讃するに勝れたるは、ただこの事に候」(雑話筆記)いった。また『中国弁』という書では、「中国」と「夷狄」という呼称は、唐土から言うのと日本から言うのとでは主客逆になり、どちらも自国を「中国」と称し相手を「夷狄」と呼ぶべきであると論じた。また湯武放伐革命思想)について、同門佐藤直方がこれを是認したのに対し浅見絅斎はこれに反対し、「ただ一つ目的君臣父子大倫より外これ無く候」と論じた。なお、山崎闇斎門下浅見絅斎佐藤直方三宅尚斎の3人を崎門三傑という。 水戸黄門徳川光圀(1628-1701)は若いころ伯夷伝を読んで発奮し修史志したという。水戸学なるものは光圀修史のために勃興したものであった光圀山崎闇斎流の崎門学者を水戸招聘した。崎門学者は闇斎流の学統水戸移植した水戸学闇斎流の国粋思想に負う所が少なくない近世国体論の中心というべき水戸学起源山崎闇斎にあるといわれる栗山潜鋒(1671-1706)は、山崎闇斎門下桑名松雲門下であり『保建大記』を著した同書の序に皇統万世一系唱えて天壌無窮」「百王歴々一姓綿々」と記した同書本文では、たとえば次の出来事について論じた。それは平安時代末期のこと、宋の明州刺史地方長官)が日本の朝廷供物献じたが、その送り状無礼であった天皇宛てて日本国王賜うと書いてあったのである大外記清原頼業受け取り拒むべきだと進言したが、後白河法皇聞き入れなかった。この出来事について栗山潜鋒は以下のように論じる。 と夷は入れ替わることがあるが夷の礼を用いれば夷であり、夷が進めばである。これが古制である。 地球は丸いのだから天地の間は何処でも中心である。どの国も中国自称して構わない日本自国神国為し海内天下為し外国を夷とも為す職員令外人掌るのを玄蕃と謂い、姓氏録秦漢末裔諸蕃収める北畠親房は彼が我を東夷為すのなら我は彼を西蕃為すのだと言った近ごろは、文学庶民に堕ちて公卿振るわない古典憎んで顧みない。元や明を中華呼び自分東夷称する万世父母の国他人のように思い歴代天皇立派な制度蔑ろにしている。 むかし隋の主から贈られてきた信書に「皇帝が倭皇に問う」とあったとき廷臣はその無礼疑ったましてや一州刺史上書の儀を失ったのである。当然、清原頼業従い受け取り拒むべきであった信書受け取り返書送ったことは国体内外に示すところではない。以上。 ここに出て来国体という語は近世最初用例一つだという。 谷秦山(1663-1718)は闇斎門下浅見絅斎学び別に山崎闇斎垂加神道をついだ。栗山潜鋒保建大記をもって神道大根とし孔孟羽翼とした名分上の良書みなして講釈し、これを門人記録して保建大記打聞』と称したその中で三種の神器皇位の関係が不可分であることを論じ寿永の乱源平合戦)のとき平家安徳天皇をつれて西国落ちたあと後鳥羽天皇神器のないまま即位したことを、あってはならないものとして攻撃した。この論は後の明治末年南北朝正閏問題重視され神器論に通じるものがある。 三宅観瀾(1674-1718)は闇斎門下浅見絅斎門下であり、徳川光圀招聘され、その国史篇修総裁となった水戸国体論は観瀾に負うところが大きい。その著『中興鑑言』はもっぱら日本国体由来論じたものであり、そのうち論徳の章において三種の神器国家皇道の関係について詳しく説いた純粋な古道をもって皇道本領であるとし、仏意も儒意もどちらも斥けた。 徳川綱條養父光圀の後を継いで水戸藩主であった時、『大日本史』が成った大日本史序文次のようにある。神武天皇基礎始めて二千余年神孫にして神聖な歴代天皇承け継ぎ姦賊皇位を狙う心を生まず神器日月とともに永く照らす。ああ何と盛んなことか。その原因つきつめると、歴代天皇仁徳恩沢民心固結し国基盤石にすることに由来する、と。また、水戸彰考館総裁修史責任者安積澹泊自著列祖成績』に序して尊王大義説いた

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