崎門流と前期水戸学
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山崎闇斎(1619-1682)は、僧侶をやめて朱子学に入り、さらに神道を修めた。皇国のために万丈の気を吐いたという。闇斎に関しては先哲叢談に載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎が弟子たちに向かって問題を出した。孔子と孟子が日本に攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子は誰も答えられない。闇斎の答えは、孔孟と戦ってこれを捕虜とし、もって国恩に報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎の人となりをうまく表した逸話であり、闇斎の学問はここに立脚する。闇斎の学統には儒学と神道があるが、どちらも国体の尊厳を高唱した点において同じである。 山崎闇斎が創始した垂加神道に関係して、日本が神国たる所以や皇統が神聖なる所以を述べて、国体の尊厳を説く者は少なくない。たとえば高屋近文『神道啓蒙』、大山為起『唯一論』、伴部安祟『神道問答一名和漢問答』、若林強斎『神道大意』一巻、尾張藩主徳川義直『神祇宝典』自序などがある。 浅見絅斎(1652-1712)は、山崎闇斎門下の著名人であり、『靖献遺言』を著し、勤王を鼓吹した。「関東の地を踏まず、諸侯に仕えず」と誓い、「もし時を得ば義兵を挙げて王室をたすくべし」ということで同書を著したという。これをみずから講じた『靖献遺言講義』では、当時の儒者がいたずらに唐土を尊び自国を卑しむのを攻撃し、皇国を尊ぶべき所以を説いた。また、ある人が天皇に拝謁したと聞いて、皇統の無窮を讃して「天照大神の御血脈、今に絶えず継がせられ候えば、実に人間の種にてはこれなく候、神明に拝せらるる如く思わるる由、さこそ有るべきことに候、我が国の万国に優れて自讃するに勝れたるは、ただこの事に候」(雑話筆記)いった。また『中国弁』という書では、「中国」と「夷狄」という呼称は、唐土から言うのと日本から言うのとでは主客が逆になり、どちらも自国を「中国」と称し、相手を「夷狄」と呼ぶべきであると論じた。また湯武放伐(革命思想)について、同門の佐藤直方がこれを是認したのに対し、浅見絅斎はこれに反対し、「ただ一つの目的は君臣父子の大倫より外これ無く候」と論じた。なお、山崎闇斎門下の浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎の3人を崎門の三傑という。 水戸黄門徳川光圀(1628-1701)は若いころ伯夷伝を読んで発奮し、修史を志したという。水戸学なるものは光圀の修史のために勃興したものであった。光圀は山崎闇斎流の崎門学者を水戸に招聘した。崎門学者は闇斎流の学統を水戸に移植した。水戸学は闇斎流の国粋思想に負う所が少なくない。近世国体論の中心というべき水戸学の起源は山崎闇斎にあるといわれる。 栗山潜鋒(1671-1706)は、山崎闇斎門下の桑名松雲の門下であり『保建大記』を著した。同書の序に皇統の万世一系を唱えて「天壌無窮」「百王歴々一姓綿々」と記した。同書の本文では、たとえば次の出来事について論じた。それは平安時代末期のこと、宋の明州の刺史(地方長官)が日本の朝廷に供物を献じたが、その送り状が無礼であった。天皇に宛てて「日本国王に賜う」と書いてあったのである。大外記清原頼業は受け取りを拒むべきだと進言したが、後白河法皇は聞き入れなかった。この出来事について栗山潜鋒は以下のように論じる。 華と夷は入れ替わることがある。華が夷の礼を用いれば夷であり、夷が華に進めば華である。これが古制である。 地球は丸いのだから天地の間は何処でも中心である。どの国も中国を自称して構わない。 日本は自国を神国と為し、海内を天下と為し、外国を夷とも蕃と為す。職員令は外人を掌るのを玄蕃と謂い、姓氏録は秦漢の末裔を諸蕃に収める。北畠親房は彼が我を東夷と為すのなら我は彼を西蕃と為すのだと言った。 近ごろは、文学が庶民に堕ちて公卿に振るわない。古典を憎んで顧みない。元や明を中華と呼び、自分を東夷と称する。万世父母の国を他人のように思い、歴代天皇の立派な制度を蔑ろにしている。 むかし隋の主から贈られてきた信書に「皇帝が倭皇に問う」とあったとき廷臣はその無礼を疑った。ましてや一州の刺史が上書の儀を失ったのである。当然、清原頼業に従い、受け取りを拒むべきであった。信書を受け取り返書を送ったことは国体を内外に示すところではない。以上。 ここに出て来る国体という語は近世最初の用例の一つだという。 谷秦山(1663-1718)は闇斎門下の浅見絅斎に学び、別に山崎闇斎の垂加神道をついだ。栗山潜鋒『保建大記』をもって神道を大根とし孔孟を羽翼とした名分上の良書とみなして講釈し、これを門人が記録して『保建大記打聞』と称した。その中で、三種の神器と皇位の関係が不可分であることを論じ、寿永の乱(源平合戦)のとき平家が安徳天皇をつれて西国に落ちたあと後鳥羽天皇が神器のないまま即位したことを、あってはならないものとして攻撃した。この論は後の明治末年の南北朝正閏問題で重視された神器論に通じるものがある。 三宅観瀾(1674-1718)は闇斎門下の浅見絅斎の門下であり、徳川光圀に招聘され、その国史篇修総裁となった。水戸の国体論は観瀾に負うところが大きい。その著『中興鑑言』はもっぱら日本の国体の由来を論じたものであり、そのうち論徳の章において三種の神器と国家と皇道の関係について詳しく説いた。純粋な古道をもって皇道の本領であるとし、仏意も儒意もどちらも斥けた。 徳川綱條が養父光圀の後を継いで水戸藩主であった時、『大日本史』が成った。大日本史の序文に次のようにある。神武天皇が基礎を始めて二千余年、神孫にして神聖なる歴代天皇が承け継ぎ、姦賊の皇位を狙う心を生まず、神器は日月とともに永く照らす。ああ何と盛んなことか。その原因をつきつめると、歴代天皇の仁徳恩沢が民心を固結し国基を盤石にすることに由来する、と。また、水戸の彰考館総裁(修史責任者)安積澹泊は自著『列祖成績』に序して尊王の大義を説いた。
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