寛政5年の16家とは? わかりやすく解説

寛政5年の16家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 21:04 UTC 版)

御土居下御側組同心」の記事における「寛政5年の16家」の解説

久道家 清洲城から名古屋城への移転清洲越しとともに居住した御土居下の最古参である。清洲城高麗門門番務めており、名古屋城への移転後清洲城から移築され高麗門門番任され、そのすぐ脇に住居与えられた。歴代藩主からの信頼厚く2代続けて御乳人を務めたこともある。天保14年1843年)に「久」姓に改めている。 平時勤務場所は高麗門番所および御深井庭であった馬場家 慶安3年1650年)に脱出用の馬を管理する厩が設けられた際、乗馬の師であった細野新三郎とともに御土居下に移転してきた。元禄5年1692年)に厩が廃止され細野家は去ったが、馬場家引き続き御土居下に居住した馬場右衛門は、師の細野新三郎劣らず乗馬長け藩主の馬の調教一任されていた。 平時勤務場所は高麗門番所および御深井庭であった大海家 寛永年間1624年-1643年)から御土居下に居住するようになった4代目大海右衛門利直は、御土居御側組の中で最も著名な人物の一人である。身長5尺9寸(約178センチメートル)、体重24貫(約90キログラム)の恵まれた体格で、人を乗せた駕籠一人で担ぐことができるほどの怪力であったまた、足の速さでも知られていた。剣術柳生新陰流柔術は転心流の達人であり、御前試合では負け知らずであった6代藩主継友は常右衛門高く評価し非常時藩主乗る駕籠大海家預け代々当主に「常右衛門」を名乗らせた。 平時勤務場所は御深井庭であった森島家 寛延3年1750年)に御土居下に移住してきた。 8代目森島兵衛は、忍術水術達人であった10代藩主斉朝に堀の調査命じられ1か月にわたる潜水調査行い、堀の底から絶え冷水湧いているのを発見している。 平時勤務場所は御深井庭であった入江家 元禄5年1692年)の東矢来木戸設置同時に加藤家とともにその番所勤務命じられ御土居下の住民となった。 笛の名人として知られ入江多門出た平時勤務場所は御土居下東矢来木戸番であったが、嘉永年間1848年-1854年)に林家入れ替わり御土居下を去っている。 加藤家 元禄5年1692年)の東矢来木戸設置同時に入江家とともにその番所勤務命じられ御土居下の住民となった平時勤務場所は御土居下東矢来木戸番であった石黒家 寛延3年1750年)に御土居下に移住してきた。 儒学者として知られ石黒四郎出た平時勤務場所は清水門詰所であった市岡家 平時勤務場所は清水門詰所であった文政年間1818年-1830年)までに御土居御側組から抜けている。 広田家 宝暦6年1756年)に御土居下に移住してきた。 忍術達人として知られ広田右衛門出した。「頭と肩が入る隙間があれば関節外して自由に出入りした」「鉤の付いた一本の中をから鳥のように飛び回った」「手を伸ばした程度の高さであれば軽々飛び越えた」などと伝えられている。 平時勤務場所は清水門詰所であったが、増右衛門最後に寛政12年1800年)に絶家となり、後に広田家屋敷には水野家入った岡本家 宝暦7年1757年)に御土居下に移住してきた。2代目までは「木村」姓であったが、3代目から「岡本」姓に改めている。 8代目岡本右衛門正利通称岡本勇吉)は田付流砲術極意授けられ鉄砲名手であり、「勇吉健在ならば主君護衛盤石なり」と言われるほどであった。藩の砲術指南役務めて士分同格扱い受けたまた、9代目岡本梅英画家として知られている。山本梅逸師事し、元々は趣味範囲描いていたが、明治維新後に禄を離れてからは画家として生活した長男である10代目岡本柳南画家として活躍した平時城中勤務した山本家 宝暦7年1757年)に御土居下に移住してきた。 文政天保年間剣術達人であった山本助三郎出した助三郎は、御前試合負け知らずであったとされ、尾張藩円明流中興した人物と言われている。 平時城中勤務した伊藤家 宝暦7年1757年)に御土居下に移住してきた。 平時城中勤務した牧野家 10代藩主斉朝の代に陪食係を務め拝領した食器類を所持していた。 また、分家から書家牧野曠壑が出た。彼は御土居下の住民ではなかったが、喧騒を嫌い、静寂求めて御土居下の牧野本家籠ることが多かったという。 平時城中勤務した諏訪家 代々儒学軍学をもって仕えた学者の家である。先祖山本勘助仕えて甲州流軍学学んだとされ、奥向き漢籍講義行っていた。 特に7代目諏訪太夫小吉大学者として知られ藩校である明倫堂教授務まると言われた。太夫没後明倫堂教授となった鷲津毅堂は、「諏訪先生の御存命中一講義拝聴したかった」と言って嘆いたという。また、太夫は、御土居下の地の記録口伝を『御土居雑記』としてまとめた人物でもある。 平時城中勤務した中川家 画家として知られ中川岳を出した前出岡本梅英とは兄弟弟子にあたり10代藩主の斉朝は殿中の襖の絵を彼に描かせた。中川家文政10年1827年)に柳原御側組屋敷移って御土居下を離れたが、岳はその後御土居下をよく訪れたという。 平時城中勤務した安藤家 平時城中勤務した弓術名人であった安藤衛門出た

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