太原城の包囲と連合攻撃とは? わかりやすく解説

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太原城の包囲と連合攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:02 UTC 版)

太原戦役」の記事における「太原城の包囲と連合攻撃」の解説

東山四大要塞争奪戦後、解放軍参戦部隊は皆死傷者多く出していて、疲労極地達していた。しかし、閻軍は国軍83旅団増援得て汾河以西城北一帯の5か所の飛行場応急修理行い、外からの援助の道を回復した遼瀋戦役終結後傅作義集団南方あるいは西方退却することを防がれていたので、留まっていた。中国共産党中央軍事員会は林彪らの建議をもとに、1948年11月16日太原攻撃支援の電報指令発出し、徐の部隊1-2週間の間に数か所の要点飛行場制圧するため再度攻撃させた後、進攻停止させた。その命令のとおり、解放軍晋中軍区部隊西山地区進入し汾河以西飛行場制圧した同月閻錫山アメリカタイム記者取材受けた時、彼が毒薬ガソリン準備があることを見せて太原城が攻め落とされ時に城に殉じるつもりであることを見せた12月1日太原前線委員会休息整備指示出され太原戦役軍事包囲変わり政治的に攻勢転じ軍事的に練兵段階となり、これに従い作戦方針を「包囲をもって瓦解させるを主とし、今まで確保した陣地固守し軍事的包囲政治瓦解させることを結合し、しだいに敵の力を削ぐ」と改定した。同時に北岳集団王平)を大同包囲派遣した12月中旬平津戦役歩調合わせるため、中国共産党はかつて第7縦隊地方部隊東山いくつかの要点を守らせ、第8、第13、第15の3個縦隊を東の石家荘派遣して傅作義南へ撤退を防ぐことを考えていた。元の計画では、太原戦役参加することになっている華北野戦軍第2、第3兵団改めて、傅作義対す防備張家口包囲派遣した1949年1月21日傅作義共産党和平協議成立し平津戦役終結した1月末、西山反撃戦が発生した解放軍地方部隊と閻軍とで西山陣地争奪となって最終的に解放軍守りとおした2月、第1兵団番号改め中国人民解放軍18兵団となった平津戦役終結後華北野戦軍第2、第3兵団(既に番号を第19、第20兵団改めていた) と第4野戦軍第1砲兵師団(彭景文)が1949年3月から太原戦役加えられた。太原前線解放軍は総兵力32万人余と増強され、徐向前中国共産党太原前線委員会太原前線司令部書記として構成し参戦部隊統一指揮した彭徳懐西北帰還する途上太原前線寄り太原総攻撃作戦参与し太原攻略後、直ちに第19、第20兵団率いて西北赴いた1949年3月太原守備指令王靖国の娘王瑞書は共産党から文書を受け太原派遣され降伏勧めたが、拒絶された。晋中戦役捕虜となった閻軍高級将校の趙承綬も入城し降伏勧告試みたが、またしても王の断固とした拒絶遭った太原城内中国共産党地下党員張全禧は城の防御図を得ることに成功し城外送り出した。しかし、別の地下党の系統は捕えられ、元山西省政府主席趙戴文息子趙宗復は再び捕えられた。けれども閻の旧交の情によって、趙宗復は処刑されなかった。 1949年3月末、閻錫山代理総統李宗仁招き応じ空路南京赴いた軍政大権敦厚王靖国孫楚ら5人に委ねたが、再び山西省帰ることはなかった。ひと冬の包囲が過ぎ、この時には、閻軍の物資は非常に困難な事態となっていた。空輸による補給部隊必要な糧食半分に足らなかった。副食品は不十分で、半数上の兵士夜盲症患った。 そして、解放軍兵力大い補強された。もともとは徐の部隊旧式な日本軍装備砲兵旅団を1個有していただけだったが、第4野戦軍第1砲兵師団全部アメリカ指揮大口火砲装備して来ていて、太原前線大小火砲総計1,300門以上で、また東北野戦軍の提供により弾薬充足していた。 4月3日徐向前周士第羅瑞卿攻城計画申告してその承認得た具体的な計画は、第20兵団は城の東北から、第19兵団西から、第18兵団は東から分かれて進攻始め4月15日開始し半月から1か月以内完了するというものであった4月9日解放軍外郭拠点進攻開始した中国共産党李宗仁政府和平交渉合わせるため、総攻撃時間22日延ばされた。17日徐向前はいつでも太原進攻してかまわないとの許可得た4月20日北平での和平交渉決裂した解放軍絶対的な兵力優勢な火砲で、全線総攻撃開始した。 これと同時に解放軍渡江戦役開始した4月22日解放軍城外郭の双塔要塞と臥虎山要塞攻撃占領した太原外郭作戦はすべて終結し、城の郊外国軍殲滅され、太原守備軍の総兵力の約80%に達した解放軍太原前線司令部引き続き太原立てこもる官兵告げる書」と「閻錫山への最終警告書」を発表したが、太原守備軍は変わらず拒否し投降しなかった。 4月24日太原城に向かって総攻撃開始され25日になり、市街戦終結した山西省代理主席敦厚と閻慧卿(閻錫山五番目の妹)らは集団自殺し、閻錫山は「太原五百完全無欠な人々」と称えた。(精査経た後に自殺確認されたのは46であった別の学者推計では、自殺者多く見積もって100から200人とされた。)太原守備軍の3万余名は全滅し王靖国孫楚日本人今村方策及び岩田清一らは生きて捕えられた。

※この「太原城の包囲と連合攻撃」の解説は、「太原戦役」の解説の一部です。
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