太原城の包囲と連合攻撃
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東山四大要塞の争奪戦後、解放軍の参戦部隊は皆死傷者を多く出していて、疲労も極地に達していた。しかし、閻軍は国軍第83旅団の増援を得て、汾河以西と城北一帯の5か所の飛行場の応急修理を行い、外からの援助の道を回復した。遼瀋戦役の終結後、傅作義の集団は南方あるいは西方に退却することを防がれていたので、留まっていた。中国共産党中央軍事員会は林彪らの建議をもとに、1948年11月16日太原攻撃支援の電報指令を発出し、徐の部隊を1-2週間の間に数か所の要点と飛行場を制圧するため再度攻撃させた後、進攻を停止させた。その命令のとおり、解放軍晋中軍区の部隊は西山地区に進入し、汾河以西の飛行場を制圧した。同月、閻錫山はアメリカのタイムの記者取材を受けた時、彼が毒薬とガソリンの準備があることを見せて、太原城が攻め落とされた時に城に殉じるつもりであることを見せた。 12月1日、太原前線委員会は休息整備の指示が出され、太原戦役は軍事包囲に変わり、政治的には攻勢に転じ、軍事的には練兵段階となり、これに従い作戦方針を「包囲をもって瓦解させるを主とし、今までに確保した陣地を固守し、軍事的包囲と政治を瓦解させることを結合し、しだいに敵の力を削ぐ」と改定した。同時に、北岳集団(王平)を大同の包囲に派遣した。12月中旬、平津戦役と歩調を合わせるため、中国共産党はかつて第7縦隊と地方部隊で東山のいくつかの要点を守らせ、第8、第13、第15の3個縦隊を東の石家荘に派遣して傅作義の南への撤退を防ぐことを考えていた。元の計画では、太原戦役に参加することになっている華北野戦軍第2、第3兵団を改めて、傅作義に対する防備と張家口の包囲に派遣した。 1949年1月21日、傅作義と共産党の和平協議が成立し、平津戦役は終結した。1月末、西山反撃戦が発生した。解放軍地方部隊と閻軍とで西山陣地の争奪となって、最終的には解放軍が守りとおした。2月、第1兵団は番号を改め中国人民解放軍第18兵団となった。平津戦役の終結後、華北野戦軍第2、第3兵団(既に番号を第19、第20兵団に改めていた) と第4野戦軍第1砲兵師団(彭景文)が1949年3月から太原戦役に加えられた。太原前線の解放軍は総兵力32万人余と増強され、徐向前を中国共産党太原前線総委員会と太原前線司令部の書記として構成し、参戦部隊を統一指揮した。彭徳懐は西北へ帰還する途上に太原の前線に寄り、太原総攻撃作戦に参与し、太原攻略後、直ちに第19、第20兵団を率いて西北に赴いた。 1949年3月、太原守備指令王靖国の娘王瑞書は共産党から文書を受け太原に派遣され降伏を勧めたが、拒絶された。晋中戦役で捕虜となった閻軍高級将校の趙承綬も入城し降伏勧告を試みたが、またしても王の断固とした拒絶に遭った。太原城内の中国共産党地下党員張全禧は城の防御図を得ることに成功し、城外に送り出した。しかし、別の地下党の系統は捕えられ、元山西省政府主席趙戴文の息子趙宗復は再び捕えられた。けれども閻の旧交の情によって、趙宗復は処刑されなかった。 1949年3月末、閻錫山は代理総統李宗仁の招きに応じ空路南京に赴いた、軍政の大権を梁敦厚、王靖国、孫楚ら5人に委ねたが、再び山西省に帰ることはなかった。ひと冬の包囲が過ぎ、この時には、閻軍の物資は非常に困難な事態となっていた。空輸による補給は部隊の必要な糧食の半分に足らなかった。副食品は不十分で、半数以上の兵士は夜盲症を患った。 そして、解放軍の兵力は大いに補強された。もともとは徐の部隊は旧式な日本軍の装備の砲兵旅団を1個有していただけだったが、第4野戦軍第1砲兵師団は全部アメリカ指揮の大口径火砲を装備して来ていて、太原前線の大小の火砲は総計1,300門以上で、また東北野戦軍の提供により弾薬も充足していた。 4月3日、徐向前、周士第、羅瑞卿は攻城計画を申告してその承認を得た。具体的な計画は、第20兵団は城の東北から、第19兵団は西から、第18兵団は東から分かれて進攻を始め、4月15日に開始し、半月から1か月以内に完了するというものであった。4月9日、解放軍は外郭の拠点へ進攻を開始した。中国共産党と李宗仁政府の和平交渉に合わせるため、総攻撃の時間は22日に延ばされた。17日、徐向前はいつでも太原に進攻してかまわないとの許可を得た。4月20日、北平での和平交渉は決裂した。解放軍は絶対的な兵力と優勢な火砲で、全線で総攻撃を開始した。 これと同時に、解放軍は渡江戦役を開始した。4月22日、解放軍は城外郭の双塔寺要塞と臥虎山要塞を攻撃占領した。太原外郭作戦はすべて終結し、城の郊外の国軍は殲滅され、太原守備軍の総兵力の約80%に達した。解放軍太原前線司令部は引き続き「太原に立てこもる敵官兵に告げる書」と「閻錫山への最終警告書」を発表したが、太原守備軍は変わらずに拒否し、投降しなかった。 4月24日、太原城に向かって総攻撃が開始され、25日になり、市街戦も終結した。山西省代理主席梁敦厚と閻慧卿(閻錫山の五番目の妹)らは集団自殺し、閻錫山は「太原の五百の完全無欠な人々」と称えた。(精査を経た後に自殺と確認されたのは46人であった。別の学者の推計では、自殺者は多く見積もって100から200人とされた。)太原守備軍の3万余名は全滅し、王靖国、孫楚、日本人の今村方策及び岩田清一らは生きて捕えられた。
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